祝祷は按手礼を受けていないと「終祷」?
少なくともほとんどのプロテスタント教会では、礼拝の最後に祝祷といって、講壇に立つ牧師が手を上げて主に新約聖書のコリント人への手紙2の最後の文を読み上げ、祝福の祈りを捧げるのが慣例です。牧師がと書きましたが、教会によっては按手を受けた牧師にしか祝祷をすることを認めておらず、牧師以外の人が行う場合わざわざ「祝祷」ではなく「終祷」と呼んだり、牧師と同じように祝祷をさせないところが存在するのです。そのような見解は聖書に根拠がありませんし、万人祭司主義に反しているため私は批判的です。
この前のお正月には元旦礼拝なるものがあり、神学部を卒業した女性が呼ばれて説教をした後、最後に上で書いたような祝福の祈りを捧げたのですが、やはりプログラムには祝祷ではなく「終祷」と書かれていました。やっていることは普段牧師が行っているような祝祷そのものにもかかわらずです。
しかしこれはまだ私が見たケースではましな方で、鹿児島の教会では神学生が説教をした時、神学生は手を上げて祈ることすら許されず、コリント第二を読み上げた後に、それとは別にお祈りをさせられていたのです。そのときたまたま私は司会の当番で、確か礼拝のプログラムを書いた紙も印刷したのですが、祝祷と書いたら執事の女性に「○○さん(神学生)は按手を受けていないから終祷と書きなさい」とはっきり言われたのを覚えています。他にも、牧師以外の人が説教などをする日は祝祷の時だけわざわざその教会の牧師が講壇に上がるところもあるそうです。
そもそも、断じて牧師などの祈祷者が祝福を与えるのでなく、あくまで祝福をもたらすのは神であって、祈る人はただ神からの祝福があるように祈っているのに過ぎないにもかかわらず、どうして按手礼を受けた牧師でないと祝祷の資格がないというのでしょうか。牧師と一般信徒との地位がはっきりと分かれている教派なら、賛同はしないもののそういう立場が存在することは理解できますが、少なくとも私が通っているバプテスト派では建前では万人祭司主義を貫いており、たとえ一般信徒がバプテスマ(洗礼)や主の晩餐式(聖餐)といった礼典を執行しても本来は問題はないはずなのです。
多大な世話になった人の批判をするのは心苦しいのですが、そういえば上で言及した執事の女性は、「神が立てた牧師に逆らうとおそろしいことになる」などと言っていたことがあるのも覚えています。万人祭司を真っ向から否定するような発言です。牧師だけでなく教会に連なる一人一人が神に招かれ、神によって立てられ、それぞれのカリスマが与えられて用いられているはずだからです。そこには按手を受けた者とそうでない者との格差など存在する余地はありません。彼女はもともと、牧師が独裁者のように権威を振るっている鹿児島市内にあるカルト的な教会から脱出したと言っていたので、そこで植え付けられた迷信の影響がまだ残っているのかもしれません。
ですが、なにもそういう人でなくても、按手礼を受けた牧師以外に祝祷の資格がないと考えている教会はかなりの数に上るのではないでしょうか。聖書には祝福の祈りには特別な資格が必要であるなどと言うことは書いておらず、やはり何か大きな勘違いをしているとしか考えられません。
今回の件についても、説教担当者をわざわざ正月から遠いところから呼び寄せておいて、しかも彼女はちゃんと神学部を出ているにもかかわらず(出ていなくても問題だと考えていますが)、こんな見下した扱いをするのは無礼千万ではないでしょうか。私なら断固抗議します。今日祝祷で読み上げられる文を書いた当のパウロも、イエスを直接知る他の使徒たちよりも、いわゆるお墨付きのない劣った者と見なされていたく傷つき、そのような後ろ盾がない自分も使徒であると激しく長々と弁明したことは第二コリントを読めば伺えます。
なお、検索していてたまたま見つけたのですが、日本バプテスト連盟の神学部がある西南学院大学の教授である片山寛氏も、少なくとも欧米のバプテスト教会においては按手を受けたことと礼典執行とは結びつけて考えられているわけではないと述べています。礼典でさえそうなのですから祝祷はなおさら按手とは関係のないことでしょう。
片山寛「按手礼についての議論の整理― 教理史を学ぶ立場から ―」(2016年1月6日閲覧)
http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/224/th-n67v1-p61-74-kat.pdf;jsessionid=7CD5F232C4DE9A06812483E6B9138A65?sequence=1
おそらく他のプロテスタント教派でも必ずしも両者が結びつくわけではないというのが私の憶測ですがどうなのでしょうか。他の教派の事情は知りませんので、ご存じの方は教えていただければと思います。