「琴線に触れる」の誤用
ある高校の吹奏楽部のドキュメンタリーで、有名らしい顧問教諭の言動が不快であったことを書いた記事のコメントに、「どのような発言が琴線に触れたのか」というコメントが寄せられました。おそらく投稿した人は、どのような発言が私の気に障ったのかという意味でそう書いたのだと思いますが、今まで私が生きてきて見聞きした限りでは、「琴線に触れる」という慣用表現は、良い意味で感銘を受けたものに対して使うはずです。悪い印象を抱いたものに対して用いた例は見たことがありませんでした。辞書を引いても確かにそう書いていましたが、デジタル大辞泉の補説によると、「文化庁が発表した平成19年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「感動や共鳴を与えること」で使う人が37.8パーセント、本来の意味ではない「怒りを買ってしまうこと」で使う人が35.6パーセントという結果が出ている。 」と書かれていました。本来の意味ではない意味で使う人が意外にも多いことに驚きました。なにも今回の人が特別間違えたというわけではないのでしょう。今回コメントを投稿した人は文体などから察するに、おそらく私より若い、20代、もしかしたら10代の人だと思いますが、どういう年齢層でこのような使い方をしている人が多いのか、どこから生まれて広まったのかは気になるところです。
もっとも、すでに本来の意味とは違う意味が定着した表現などおそらくいくらでもあるでしょうし、私も気付かずに同じような間違いをしている言葉もあるでしょう。そもそも言葉は移り変わっていくものです。今回の「琴線に触れる」の用法には違和感を隠せず、明らかに間違っていると感じましたが、何十年もすれば彼ないし彼女の使った意味が定着しているのでしょうか。