「自殺」か「自死」か?

面識のある人が自ら命を絶っていたことを知り衝撃を受けました。
ところで、このことを伝えてくれた人は「『自死』された」と言っていたのですが、あえて自「殺」という表現を避けているのかと思って後で調べたところ、実際に「自殺」を「自死」に言い換える運動が存在することがわかりました。

「自殺」→「自死」言い換え相次ぐ 自治体、遺族感情に配慮(日本経済新聞。2014/3/10付)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28031_Q4A310C1CR0000/

ある自殺者の遺族は、「『自殺』には命を粗末にした、という印象があり、残された者が一段と傷つく」と主張しているようですが、これだけ書かれても、一体どういう根拠で「自殺」が命を粗末にしたことになるのか理解できません。

むしろ、「自死」といってしまうと、まるで自然死のように勝手に独りでに死んだかのようで、自らで自分の命を絶ったという行為の凄惨さが伝わっていないともいえるのではないでしょうか。「首吊り自死」、「飛び込み自死」、どうも違和感は拭えません。
実際に、別の遺族会の役員は、

「『自死』という表現は過酷な現実をオブラートに包んでしまう面があり、死に対するハードルが下がりかねない」と懸念する。」

と述べているそうです。

しかし、結局、こんなことはどうとでもいえるわけで、所詮は遺族自ら認めているように印象論、感情論であって、単なる言葉遊びに堕してしまう危険さえあります。そもそも、自殺を自死に言い換える言葉狩りのようなことをしたところで、どういう事情であろうと家族が自ら命を絶った事実は変わりようがなく、遺族は満足するんでしょうか。そして、そのような情緒的な「議論」で、自治体や公的機関がわざわざ仕事を増やしてころころころころと表現をいじくり回す必要や意味があるのでしょうか。甚だ疑問だと思わざるを得ません。

こんなことを考える必要さえないように自殺者がいなくなればそれで良いのですが、自殺が一切発生しない社会というのも正直なところ現実的ではないでしょうから、表現云々よりも、引用元にもあるように誤解や偏見があるのなら(上のような遺族感情にはそういう偏見等が関係しているのでしょう。「自殺なんかするのは心が脆弱だからだ」とか言う人がいるんでしょうか)せめてそれをなくすにはどうすればいいのか頭を使って考えるべきでしょう。
自殺については色々と書きたいことはありますがこの辺でそれについては筆を置きます。

ところで、同じような疑問は障「害」者、障「碍」者、障「がい」者の言い換えにも通じるところがあります。私は今でも精神通院医療の自立支援制度を利用していて、症状が酷かった際は今から思えば精神障害者の手帳を申請してもよかったと思っている上、この前は検査で発達障害の可能性があると診断された人間ですが、一人の当事者からすれば表現などどうでもよいことというか、そんなことに気を遣っている暇などなく、症状が緩和されてまともに社会生活が送れるようになり、そのための理解や支援がなされる社会であればよろしいと考えています。重度の知的ショウガイシャの子を持つ私の親戚もおそらく同意見でしょう。

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