私にとっての書道
私は幼少の頃から、ローカルな小さな会派の書道教室に通っています。最初は何もわからずお習字として始めて、地元を離れたときも添削してもらったり書かなかったりでだらだら惰性で続けてきましたが、近年になって、段々芸術志向?になってきて、単に綺麗な字を書きたいとは思わなくなってきました。良いのか悪いのかはわかりませんが。
書道といっても、毛筆、細字、ペン字の部があるのですが、途中で先端恐怖症になって、ペンを使えなくなったのと、精神的な問題を抱えて余裕がなくなったので今はほとんどもっぱら漢字ばかり書いています。
師匠は今でこそこじんまりと書道教室で教えていますが、若い頃は過酷な修行(練習は100枚が当たり前、合宿では風呂場のタイルで書いた、など)を積んで毎日展など大規模な公募展覧会に出展していた人らしく、私は小さな子供の頃から世話になっていて、書道の腕以外にも、私の性格やプライベートな弱さも親兄弟に準じてよく知っていて、散々不快な思いをさせたり迷惑をかけてきたにもかかわらず、なんとか見放されずに師事させてもらっています。
一応、今の私は時間はありますし、どうもここ数ヶ月は精神状態が悪化して頭が働かず、本来の学業に身が入らない代わりに、毎回昇段試験(書道にそういうものが存在すべきなのかどうかはまた別の話ですが)も受けて、一応高段者にはなっているのですが、まだまだ師はおろか、姉弟子(先生が女性だからかはわかりませんが、お弟子さんも女性が多いのです。たぶんずっと続けていて比較的若い男性は私が唯一)の足元にも及びません。続けてきた年数に見合った実力があるとは到底言えません。私からすれば師の書いているところを見ると、まるで手品かなにかのように感じるほどです。
師は上にも書いた通り、キャリアもキャリアですし、相当な修練を積んできた人で、私とは練習量一つ取っても雲泥の差、教え子各々の実力に見合って手加減は十分して下さるのですが本来厳しい人なので(書く字そのものも柔らかいというよりは峻厳!)、今の教え子の甘さをしきりに嘆いているのですが、そうはいっても、書道もただ書きまくれば良いというものでもなく、意外と頭を使うこと、覚えなければならないことが多いことに気づいてきました。そうでなければアカデミックに書道を教える場なんて存在しませんし。
たとえば草書の崩し方、変体仮名、基本の楷書でさえ細かな運筆法、道具の使い方、書道史の知識…、枚挙に暇がありません。そうはいっても、師がどうやってそういうものを身に着けてきたかは知りませんが、私自身はそういうことは別段今までせいぜい断片的にしか教わっていないので、独学で身につけなければ書くに書けないのです。
ですから、師の指定の物以外の道具を自分で調達したり、ひっそりと家で技法のテキスト(師から教わったことと書いていることが違ったり、偏りが見えてきたりして興味深い)や、古典の拓本を蒐集して臨書をしたりしているのですが、内心訝しげに嫌がられている、小馬鹿にされているのだろうなあと感じています。
それでも荀子だったか、出藍という言葉もあることですし、いつかは師を唸らせるような作品を書きたいというある種の反骨心、野心は抱いているのですが、ここ数年他のことで四苦八苦しているうちに、会長を務めていた師の師匠もついに亡くなり、師自身も還暦を過ぎ、初孫もでき、私自身も精神的、金銭的(「なんとか道」のご多分に漏れず、この程度の規模でもとにかくカネがかかりますし、終わりのない世界ですからねえ…)な面や、そもそも別にプロの書家を目指しているわけでもなく、いつまで続けられるかもわからず、一応高段者まで上り詰めてはいる以上、要求されるものもどんどん厳しくなってきますから、辞めるなら今のうちなのでしょう。
けれども、一応哲学畑にいた(まだ諦めていない!)人間ですし、書道はどういう芸術なのか(そもそも芸術といえるのかとさえも問えましょう)という問いに対する自分なりの答えが出せるまでは、力続く限りなんとか続けたいものですが…。