中高年テニサーでの不快な体験
明後日から1ヶ月以上旅に出るわけですが、その前に自分の中に溜まった憎しみを吐き出しておこうと思ってこんなことを書いてみます。
大学などのテニスサークルって、たいてい高校まで体育会系でバリバリやってきたがもう大学で続ける気がない一部の連中(特に男)が幅を利かせて、大勢で飲んだり、股のゆるい女と寝たり好き勝手やっているイメージが強いですが(もちろんそんなことはないサークルもあるでしょうけど)、他の競技に比べてそういう傾向が見られるのは、テニス自体、野球サッカー等に比べて敷居が低いからでしょう。コートさえ確保できれば、人間二人、ラケットとボールだけでできちゃうわけですから。
そういう傾向は何も若者のサークルに限らないという話です。
私はテニスをやっている(やっていた)人には嫌いな人が多いですが、テニス自体はなぜか好きで、3年前の今頃、私は当時京都にいたのですが、帰省時にある知人に、彼女が府立公園で練習しているサークルに一時参加させてもらえないかとお願いしたら、あまり良い顔をしていなかったものの(彼女の懸念は現実のものになったわけですが)引き受けてくれました。
その人には中高生の頃にも何度か参加させてもらったことがあったのでそのよしみでお願いしたのです。
さて、そのサークルには、もう還暦は過ぎたであろう「コーチ」がいたのですが、球拾いの際にそうとは気づかずに、ベンチに座って私を幼少の頃から知っている別の知人から、近況などを聞いていたら、そのコーチがものすごい剣幕で怒鳴りつけてきたのです。
確かに、(日本では)球拾いは教わっている側皆でしなければならないものですが、私も別に意図的にサボっていたわけではなく、不注意で気づかなかっただけです。(もし熱中症で気分が悪くて座っていたのならどうしたのでしょう)
初対面の人間にそこまで罵声を浴びせる必要があるでしょうか。こちらが若いから馬鹿にしているのでしょうか。「よそ者」に冷酷な排他性を感じました。
しかもこの男性、コーチとはいってもなにか指導らしい指導をしているわけでもなく、定型的なメニューでただボールを出しているだけなのです。まあ機械よりは多少精度がよく、加減の効く球出し機みたいなものでしょうか。テニスに限らず、古い体育会系経験者にはそういう「指導」しかできない無能者が多い印象です。(別の記事で書いた、例の吹奏楽部や、私の中学生時代のテニス部顧問みたいに)
その証拠に、参加者のある中年女性のフォームは典型的な軟式上がりのまんま(一体何十年前からでしょうか)、別の若い女性には(といってもオバサンですが)やけに甘く接していました。こんなじいさんに金を払ってコーチと奉るくらいなら、自分たちで試行錯誤してメニューを組んだほうがマシではないでしょうか。
なお、私がお願いした知人もプレイ中のふとした私の不注意な発言に本気で不快感を覚えたようで、後でかけあったら、テニスは紳士のスポーツやろと言っていましたが、体育会系やプロまで含めての現実を指して言っているのか(だとしたら噴飯物です)、理想論として言っているのかどちらなんでしょうか。おそらく後者でしょうし、私もヒューイットやキリオスよりはサンプラスやフェデラーの方が好きですが、彼らも人格そのものというよりは勝つためにそう振る舞ってるところが大きいでしょう。(古くはクリス・エバートとか)
興味深いのは、彼女、淑女のスポーツなどとは言わなかったし、そもそもそういう言葉を一般的に聞いたことがありません。紳士、紳士などというおばさま方はは淑女たろうとなさっているんでしょうか。
さらに彼女、球拾いの件も、テニススクールとは違うんだから、遊びではやっているわけではないなどとも言っていましたが、テニススクールでも球拾いはコーチを除いた生徒だけでやるのは同じですし、遊びではないと言うわりには妙なところにこだわりが強いだけで、上でも述べたように、特別中身のある練習がなされていたわけでもなく、たんなる排他性が強い団体であることを指しているに過ぎないと感じました。これなら単なる安かろうで、金はかかってもよくあるこのような社会人(?)サークルよりは、企業のスクールのほうがマシです。もっとも、月額1万円ほど取っている、ジュニアからプロも輩出しているようなスクールにもろくでもないところがあることを後年になって知りましたが。
郷に入っては郷に従えという言葉はありますし、私にも明らかに落ち度はあったと思いますが、典型的な偏頗な村社会的縮図を垣間見た気がしました。
例のコーチも帰り際にはニコニコと笑顔を張り付けて甘い言葉を私にかけてきましたが、結局自分の共同体の秩序に従順であるかそうでないかが人に対する判断基準なのでしょう。こういう老人はおおかたそういう場以外では威張り散らして自己実現する場所もないでしょうから、せいぜい一人寂しく死んでいって欲しいものです。
頼んで入れてもらってなんということを書くんだと非難されるかもしれませんが、私も同じ金を払っているんですから一方的に恩知らずと言われる筋合いもないでしょう。
未だに私は苦手ですが、人前で感情を露わにして良いことは一つもないし、必要最小限の事以外喋らないほうが良いと振り返って改めて痛感しました。(競技中は確かにそうした方がパフォーマンスの観点からも正しい)
不注意なところはなかなかどうにもならないと思いますが。そういうこともあってテニス(セルフジャッジも苦手ですぐ忘れる)というよりスポーツに向いていないのでしょう。
当時、心身の調子が下り坂だったところにそういうこともあって、私の精神的状態はさらに右肩下がりになっていき、冬前には向精神薬のお世話になって今に至ります。
もっと、開放感が欲しい、とらわれや柵から解放されたい、何をやっても満たされない、しょうもない連中に何を言われようが歯牙にもかけたくない、何年も経っても思い出したくない(そういう記憶力は良いもので)、生き生きとした実感、躍動感を!そんな思いを抱えて日々過ごしていますが、今度の一人旅はどうでしょうか。一人旅とはいえ、色々な人の世話にならざるを得ないものですが。
きっと、上で書いたような男性も、同じ初対面でも疲れきった旅人には優しいのだと思いますが、相手が自分より弱いから、それは単に自分たちの秩序を脅かす心配がないからにすぎないのでしょう。逆に、旅人に優しくしてくれる人も、立場が違えば悪鬼のような仕打ちをするかもしれません。
それにしても、不快な体験は年月が経ってもどうしてこんな鮮明に記憶に残っているんでしょうか。私の認知や記憶能力以外にも、それを洗い流すような体験がないからなのでしょうか。心が狭い、器が小さいからにすぎないのでしょうか。
まあ、この辺にしておきましょう。私の人間観、決して現実離れしていないし、あながち鈍くもないと思うのですが、ただの個人の見方を思想に昇華させるにはどうすれば良いのでしょうか。まあそれはこの記事とは別の話ですが。