他者についての覚書
他者
自分とは異なる者
いかに理解するか
レヴィナスなら理解という言葉自体不適当とみなすか?
共通点を見つける
趣味、思考、嗜好etc…
しかし自分の鏡として認識することではないか
共通項として結びつけるものは神、盲目的な意志であったりさまざま
感情に着目する方法もある
自分に取り込もうとする
暴力など以外には?押し付け
自分に近づける
同一性
他者の異質さを受け入れることではない
科学的説明
たとえばミラーニューロン
より知識が求められる
しかし結局無意識に自分の鏡にして認識しているという説明にしかならないのでは
他者との間に断絶はある、なければならない
そうでなければ他者といえるのか
私は私、エゴイズムでありコナトゥス
しかしあなたもあなた、私とは違う
どう超えるのか
ブーバーの「対話」
相手が「それ」とみなしていれば私の「汝」は一方的なものにしかならないのか
レヴィナスの洞察
他者は絶対に取り込めない、取り込んではならないという点で共感や同情の哲学を超えているとは思うが顔の概念がどこから導き出されるのかわからない
存在の全体性に絡め取られない他者の歓待(了解ではない)は本当に可能なのか
ハイデガーはおかしいと思う、少なくとも『存在と時間』では
他者の自由を奪おうとしているのではないか
キルケゴールの「単独者」
孤独なのか
他者を切り離すのか
どう関わるのか