靖国神社に参拝するのは「日本人として当たり前」?
古屋圭司国家公安委員会委員長が靖国神社に参拝したというニュース記事を読んだ。古屋氏いわく、「参拝の理由について「国会議員の責務」かつ「日本人として当然のこと」」であり、「国のために命を捧げた英霊に哀悼の誠をささげることは、日本人として当然のことと考えております。」とも述べている。
しかし、これはあまりに偏った、視野の狭い危険な見解である。靖国神社参拝を肯定しようとする人々はしきりに「英霊」という言葉を用いるが、英霊なる概念はあまりに特定の宗教に偏った見方にもかかわらず、それを自明にしている。普段は科学技術の恩恵を受けて生きている人間が、死んだ人間は霊になり、慰霊をしなければならないなどと考えるのはオカルトじみているといえる。完全に特定の宗教的世界観に基づいた見解であり、それを自明のものとすることは、神道原理主義というような論理が働いている。
それにもかかわらず、それを「国会議員の責務」、さらには「日本人として当然のこと」と言い切るのは、あまりに独断的であり、排他的である。そもそも政教分離の精神に反しているし、なんら神道的世界観に関心のない日本人も存在するからである。日本に生まれた者、日本に住んでいる者が神道や神社を特別視し、霊なる存在を認めなければいけないという道理はどこにも存在しない。良くも悪くも歴史的に我が国では神道や仏教が文化として根付いていて、時にはそれが政治的権力と結びついて繁栄してきたという事実と、その宗教的世界観を個人が受け入れることとはまったく別の話である。
日本には八百万の神々がいて寛容であるとか、和の精神だとか、そういったものを日本人の誇りのように語る人々がいるが、そんな主張は嘘八百もいいところであって、現実には必ずそこに排他性が潜んでいるのである。(一キリスト教徒から言わせてもらうと、そういう人はたいていやれキリスト教は排他的だ、キリスト教の歴史は殺戮で血塗られている云々とのたまうのだが、ある宗教が権力と結びつけば迫害が生じてろくなことにならないのは多神教であろうが何であろうが同じことである。上のような形で未だ生き延びている国家神道はじめ、日本にもそのような歴史が存在したことに目をつぶるような人が、中世カトリックの十字軍や魔女裁判は批判するのはダブルスタンダードである。)多様性を認めないのは古谷氏のような神道原理主義的な見方をする人のほうである。彼のような人物は、物事を深く考えられない人であり、そのような人が国の要職に就いているのは国益を損ねていると言わざるをえない。偏狭固陋な主張をして世界に向かって恥を晒している。このような見解が大多数の日本人を代表するものだと思われては困る。
そもそも戦争という狂気の世界のもとで強制されて国家のために命を散らすことなど、どこの国であろうが立派なことでも誉められたことでもなんでもなく、悲惨極まりなく、で決してあってはならないことにほかならない。「同期の桜」では、「花の都の靖国神社、春の梢に咲いて会おう」などと勇ましく歌われているが、現実に特攻をかけて死んでいった人たちの心境はそんな単純なものではなかった。また、犠牲者の中には朝鮮、中国人が少なからず含まれていたことも忘れてはならない。知覧の特攻平和会館へ行けばいくらでもその証拠を見ることができるだろう。