書きなぐり
まだスランプから抜け出せていません。そこで、今後の知的活動(などと書くことさえおこがましいのは重々承知していますが)の方向性を定めるため、現在どのようなテーマに関心があるのかを思いついただけ書き殴ってみることにします。
本来の自己になるというキルケゴールのモチーフ。しかし、英米の分析哲学もフランスのポストモダニズムもおおむねその自己という概念を解体する方向へと向かっていると思われるが、それとどう対話するのか。今の時代に自己から思索を始めることは可能なのだろうか。自己といえば精神分析も無視できまい。
かけがえのない自己を埋没させ、周りと同化させてしまう大衆社会の問題。キルケゴール、ニーチェに始まり、ハイデッガーやオルテガ・イ・ガセットなど。二元論的な批判は乗り越えられるか。
第二次大戦中のドイツでの教会闘争について(バルトやボンヘッファーなど)
日本でも今集団的自衛権などが問題になっている。キリスト教徒として、戦争という最悪の行いにどう抵抗するべきなのか。日本に住んでいる者としては、右翼的勢力と繋がりのある神道、とりわけ靖国神社や国家神道の正体についても突き詰める必要があるのではないか。それは天皇の問題にも関係してくるであろう。
バルトは啓示の立場から自然神学をどう批判したのか。
ブルトマンの非神話化に対する理解。神やキリストの実在まで神話化してしまうおそれはないのだろうか。
そもそも上記(教会闘争の件は関係ないでしょうが)のようなことを考えだすと、(不毛な)形而上学ないし存在論に行き当たるのは不可避なのだろうか。たとえばハイデッガーはキルケゴールを実存的であっても実存論的ではないと批判していたが…。
本当の今の私の課題は教育であるから、上のようなテーマを教育にも絡めたいがなにかないだろうか。コミュニケーション、現象学などなど。