『昔はよかったというけれど 戦前のマナー・モラルから考える』の感想
残虐で陰惨な事件は新聞やニュースの報道で絶えることがない。たとえば、つい最近は、女子高生が同級生を殺害した上で死体を切断するという痛ましい事件が起きた。そのような事件が起これば、決まって政治家やテレビのコメンテーターが、「少年犯罪の増加、凶悪化」(実際には統計上はむしろ戦前に比べ格段に減少している)、「現代の若者の闇が…」が云々、「若者の道徳、モラルの低下が…」などと発言し、さらには学校での道徳教育の必要性が声高に叫ばれる。私の祖母も以前「昔は修身が教えられていて倫理、道徳が…」などと言っていたことがある。そこには、「かつて(特に戦前の)日本は美しかった」、「かつて日本人は高い道徳心を備えていたが、経済成長や戦後教育でそれが失われてしまった」という価値観が見え隠れしている。しかし、かつてのわが国の道徳心は本当に優れたものであったのだろうか。単に「古き良き」昔を美化しているにすぎないのではないだろうか。大倉幸宏『昔はよかったというけれど 戦前のマナー・モラルから考える』(新評論2013)は、そんな疑問に正面から取り組み、豊富な例によって、「昔はよかった」という主張は実は幻想にすぎないことを明らかにし、読者に冷静に歴史を見つめなおす視点を与えようとしている本である。
たとえば、今でも電車の中で化粧をする女性はよく見かけるであろう。私自身も、そんな光景を見ると恥ずかしくないのかと苛立ちを覚える。しかし、大倉氏によれば、それはなにも今に始まったことではなく、むしろ戦前からよく目にした光景だったという。それどころか、電車の床に飲食物が散乱したり、整列せずに我先にと車内に乗客が雪崩れ込んだりと、今よりもひどい有り様なのであった。他にも、児童虐待や、現代よりも聖職とされていた教師や、さらには医師による生徒、患者へのわいせつ行為なども今と同じように存在していた。さらには、大人が大人なら子ども子どもで、修身や教育勅語による道徳教育も、子どもたちには浸透しておらず、店頭に陳列している商品を平気で破壊するなど度の過ぎた悪戯がはびこり、親もそれを厳しく叱らないという体たらくだったのである。
本の大部分は、このように、いかに戦前の日本人の道徳心が低かったか、いかに凶悪犯罪が多発していたかということを明らかにするため、また、「戦前の日本の道徳心は優れていた」という見方は幻想にすぎないという筆者の主張を裏付けるための、戦前の本や新聞記事などの豊富な出典からの引用による具体例で占められている。(巻末には参考文献一覧が掲載されている)しかし、どれも同じような話ばかりで、それぞれの具体的なエピソードに強い関心がある人以外は、全編じっくり読む必要はないと思う。
各エピソードを読んでいると、日本人の道徳心やマナーの低さに同じ日本人として恥ずかしくなってくるほどであるが、大倉氏の目的は、日本人を貶めることでは決してない。そうではなく、大倉氏は、負の面を直視することを欠いた、一面的で恣意的な歴史観は、社会を誤った方向へ導く危険性を秘めており、現在わが国でそのような強い傾向が見られることに対して警鐘を鳴らしているのである。逆にいえば、冷静な視点で歴史を見つめることこそが、われわれの社会のはらんでいる問題を正確にとらえ、より良き社会への道を開くことにつながるのである。このことはあとがきを読めばわかる。
序章には、かつて「ヤンキー先生」としてマスメディアに取り上げられ、盲目的に日教組批判を展開しているらしい義家弘介氏をはじめ、わが国の政治を担うはずの何人もの政治家が、妄想に酔い痴れ、事実誤認の歴史認識に基づいた発言を平気で行っていることが書かれている。また、安倍晋三首相が推進している「道徳の教科化」にも、美化された戦前の修身への回帰が見られることは言うまでない。大倉氏は私と同じく、そのような状況に強い危機感を覚えているのであろう。
[amazonjs asin=”4794809549″ locale=”JP” title=”「昔はよかった」と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考える”]