日本聖書協会の「聖書協会共同訳」は買い換える価値がなさそうな「新訳」

今更な話ですが、日本聖書協会から、現在最も流通していると思われる日本語訳聖書「新共同訳」に続く新しい訳、「聖書協会共同訳」の発売が近づいているようです。と思ったらついにすでに発売されていたことがわかりました。

しかし、翻訳者の一人の聖書学者の講演を聴いた上で、パイロット版を読んだ限りでは、到底新しい委員会を作ってまで大々的に新訳と銘打つ事業には値しない羊頭狗肉ではないかというのが私の印象です。わざわざ大枚をはたいて既存の聖書と入れ替えるような価値があるとは考えられず、導入を検討している教会等の参考になればと思います。

昨年だったか、たまたま私はマタイ福音書の翻訳担当者である聖書学者の須藤伊知郎氏の講演を聴く機会がありました。その時に須藤氏はこの新訳の話もしていて、5章のいわゆる山上の説教と言われている箇所は、「幸せだ」から始まるようにすると話していたのが印象に残りました。

よく知られている、「心の(直訳すると「霊において」)貧しい者は幸いである」は、単語だけでなく文法からしても原典に忠実な翻訳だとはいえないのです。

ギリシア語の原文を見ますと、須藤氏が述べるところの「幸せ」に相当する語から始まっていて、少しなら単語や文法は知っているものの、ギリシア語をちゃんと修めたわけではない私の表現が正確かはわかりませんが、いわゆる倒置表現のようになっているのです。英語やドイツ語訳の聖書ではちゃんとそれが反映されています。

ですから、「幸せだ」が適切な訳語かは議論の余地はあるかもしれませんが、それから始めるように変えたという点は、大きな進歩だと思わされました。

さて、その後、完成品の前に試験的に発行されるパイロット版が発売されるというので、わざわざお金を払って、マタイによる福音書ほか、気になった文書のものを入手してみました。届いたら早速、どんなものか気になって開いてきたら、なんと、須藤氏が話していた内容が全く反映されていなかったのです。訳語はおろか、倒置さえも変わっておらず、「心の貧しい人々は幸いである」のままでした。

どこか楽しそうな表情で先述した話をしていた須藤氏があの後考えを変えたとは思えません。おそらく、委員会訳ですから、須藤氏以外の委員会の人たちが認めなかったのでしょう。あれからご本人には会っていませんが、残念だったのではないでしょうか。

さらに目を疑ったのは、2章に登場する、イエスの誕生を拝みに行こうとした人たちが、新共同訳では「占星術の学者」と訳されていたのに、新しい訳では、新共同訳より前の口語訳などと同じように、「博士」となっていたことです。

これもギリシア語原典を見ますと、この語は「マゴイ」と読みまして、初めて知った方は私のように驚くかもしれませんが、なんと英語のmagicに繋がる語であって、使徒言行録に登場する「魔術師」(単数形は「マゴス」)シモンと同じ語なのです。断じて我々が想像するような立派な博士(それこそ須藤氏のような)などではありません。新共同訳の「占星術の学者」もまだ誤解を招きかねず、「占星術師」でも良いくらいです。それなのに、「東方三博士」などという呼び慣れた呼称に従ったのか、なぜ「博士」に戻したのか、どういう方針によるのか理解不能です。進歩しているどころかはっきりと退行しているといえると思いました。(2021年11月17日追記。少し言いすぎかもしれない。古代社会では占星術は現代の先日くたばった女ペテン師の生業のような卑俗な星占いのような位置づけではなく、自然科学のような高度な学問とみなされていた。いずれにせよ当時のユダヤ人社会にとっては異質な人々であったとは思われるが)

決して保守的な立場ではないマタイの専門家の須藤氏ほどの人物がこんな訳語をあてるとはやはり到底考えられませんから、真相はわかりませんが、これも翻訳担当者以外からの圧力があったのではないかと思わされました(須藤氏に直接問おうと思えば問えるのですが面倒臭くてやらず終いです)。

もちろん、私が指摘した箇所は聖書の中のほんの一部ですし、パイロット版でのことに過ぎませんが、よく読まれると思われる有名な箇所でこれなのですから、他の箇所も推して知るべしではないかと思わされました。新共同訳に比べて改善点もいくらかはあるかもしれませんが、結局は口語訳から新共同訳のときと同じように、改悪点に比べて良くて同じくらい、あるいは改悪された箇所のほうが多いかもしれません。出来上がったものがマイナーチェンジにしかならないのであれば、保守派の新改訳(神学的立場は私は支持しませんが)のように、既存の翻訳のアップデートにすれば良いのであって、新しい委員会を立ち上げて新訳と銘打つ必要があるのか大いに疑問です。

わざわざ新しい委員会を立ち上げ、気鋭の神学者、聖書学者を集めた上での大々的に喧伝した事業(当然、このご時世に財政が豊かではないにもかかわらず莫大なお金を要したことでしょう)にもかかわらず、翻訳者の意見を尊重せずに、今までの翻訳と変わっていないか、むしろ退行しているとしたら、一体なんの意義があるんでしょうか。

これらのことから、聖書協会にお布施をしたいという奇特な人や、批判的に比較、検証したいという人でなければ、わざわざ少なくないお金と労力を使って既存の翻訳から入れ替える価値があるとは全然考えられず、「聖書協会共同訳」が発売され、導入を検討している教会等のキリスト教関係の施設がありましたら再考されたほうがよろしいと思います。

(追記)パイロット版を買った当時、別の聖書学者にこのことを話したら、いわゆる山上の説教については彼は須藤氏の「幸せだ」(原語では「マカリオイ」)を確か、「祝福された者たちよ」のほうが良いと言っていたのを思い出しました。確かに、「幸せ」に限らず「幸い」もですが、そう訳してしまうと、たとえばギリシア哲学者のアリストテレスが説いたような、宗教的概念ではない幸福(エウダイモニア)と捉えてしまい、神との関係を前提としている(RSVなどの英語訳聖書ですとblessedと訳されていて決してhappyではありません)ことが伝わらない可能性があるのでなるほどと思わされました。

(2020年12月26日追記)もう去年のことですが、偶然この「聖書協会共同訳」を取り扱った「福音と世界」誌を読む機会があり、翻訳に携わった旧約学者の月本昭男氏や、新約学者の辻学氏はそれぞれが寄稿した文章の中で完成版の翻訳に対して不満を顕にしていました。

日本聖書協会の「聖書協会共同訳」は買い換える価値がなさそうな「新訳」” に対して2件のコメントがあります。

  1. kamihaainari より:

    まったく同感。1955年版から幾度購入したか。今回は礼拝で使用できる拡張の高い編集と宣伝しているが以前の版は何なのか、言語には素人集団を集めて。翻訳だけで未だ数世紀掛るであろう。牡丹のかけ違いは以前ローマ教会と共同訳が出たが目も当てられない酷い物であった。まともな聖書学者は今回も排除されている。原典に対し各個教会には御苦労であるがまともな注解書を選ぶしかないであろう。

    1. 鴉(管理人) より:

      聖書学者自体は国内有数の人が集められていると思いますし、問題は他のところにあるのではないかというのが私の見解です。本文で言及した須藤氏もかの荒井献氏の門下だったはずです。

      共同訳が新共同訳の前に出たものを指しているのであれば、あれの失敗は、確か田川建三氏も指摘していたと記憶していますが、個々の聖書学者の能力よりもナイダ理論なるものを採用したからだと思います。

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