『にせユダヤ人と日本人』再読
前の文章でデタラメを撒き散らすデマゴーグを批判するのはインチキを撒き散らすのに比べて何倍もの労力がかかってしかも不毛であるというようなことを書いた後、クリティカルシンキングの本でも論理学の本でもありませんが、ふと浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』を思い出しました。
世間の耳目を集めて社会的影響力を持ってしまったデマゴギーへの痛烈で軽快な批判や、そういう人たちの主張を批判することがどれだけ大変かわかる一例として一読して損はない本です。
さすがに扱われているネタが古くて馴染みがないものかもしれませんが、内容は変わってもインチキな本や主張を巡る社会的な構図自体は30年以上前からちっとも変わっていないことに唖然とさせられます。
たとえば、「日本のマスコミ界で売れっ子となり、右翼のお先棒をかつぐのには、これくらいの(引用者註:山本七平氏が語学力が欠如しているのに滅茶苦茶な英文和訳をした本を出版したこと)才能と心臓があればよい―いやいや、なくてはならない―それさえあればあとはチャンスである。読者諸賢もあすからベストセラーの著者となっているかも知れない。(p.269)」などと浅見氏は皮肉っていますが、昨年だかに「ベストセラー」になった百田尚樹『日本国紀』などはその典型例でしょう。
「もっとこわいのは、昔もこういう種類のデタラメ『文化人』の協力でファシズムがやって来たし、こんど来るときも同じだろうということである。p.283)」(という浅見氏の最後の一文が杞憂であれば良いことを願うばかりですが、社会に破壊的な結果をもたらす、浅見氏のいうようなデタラメ「文化人」は必ずしも山本氏や百田氏のような右翼に限らず、左翼や「リベラル」におもねる人たちからも現れうることは十分に注意しておくべきでしょう。
どういう立場のものであれデタラメな言説はほうっておけば良いと言う人もいるかもしれませんが、本書で批判されている「『にせ』ユダヤ人」(イザヤ・ベンダサンこと山本氏)の書いたデタラメで塗り固められた本(『日本人とユダヤ人』)は当時は中曽根康弘首相までがありがたがって読んでいたそうで、行政の長がインチキの影響を受けたとしたらわれわれの生活にも悪影響が及ぶことは十分に考えられますし、中曽根氏以上に出来の悪い人物が首相を務めていたらすでに実害を被っているかもしれません。
たとえデタラメを信じ込んでしまった他人の信念を容易に変えることができないとしても、それが自分や社会が知的誠実さを追求すべきことを放棄する言い訳にはなりません。