情報を選ぶ根拠は?
町内の料理店の営業日を確認するためにTwitterにアクセスしたら、店主がダイエットに挑戦するなどということが書かれていました。参考にしたらしい本とYouTubeの画像も貼られており、本は医学博士が書いたもので、帯には「メンタリストDaiGo推薦」などと書かれていて、一方YouTubeは中田敦彦のなんとかなどという文字が踊り、どちらもご丁寧に本人の写真が載っていました。自分の価値観との余りの違いを感じさせられ、またなぜそういうものを信じたくなるのかを考えさせられました。
世の中をなめているのではないかと思いましたが、もういい年の立派な社会人のはずです。単純に情報を選別する訓練を受けたことがないのかもしれませんし、学校での勉強をおろそかにしてきたからかもしれません。専門知の積み重ねを信用しない傾向があり、むしろそのようなものは一部の権威による利権の巣窟にすぎないという陰謀論への親和性もあるのかもしれません。その割には、現政権の政策に従順であるかのような発言を聞いたことがあるため、保守的かつ権威主義的傾向があるようにも思えます。もちろん反知性主義や陰謀論に親和的だったり、権威主義的な人は革新派の人にも見られますが、そちらではなさそうです。
一方、私は上のような人物の名前を見た時点でまず信頼しない情報だと判断しますし、暇つぶしにも読んだり見たりさえしないのですが、それはなぜかと考えてみました。本なら、専門家(特に学術的な研究実績のある人が好ましい)が書いたものであるのか、おかしな本を出している出版社ではないか、宣伝文句や題も含めて、扇情的な独断を書いていないか(本当に専門知を大切にしている人ならそのような発言は憚られるものだから)、そのような点を判断基準にしているからだと思います。
あとは専門知を究めることの大変さを知っているからか、そのような素養がないにもかかわらず、なんでも知っているかのように発言して、一般大衆に人気を博しているような人は信用できません。それはプラトンの著作に出てくるような「ソフィスト」批判の影響もあるかもしれません。デカルトも、真理探求の間はあらゆる極端を避けたと述べていたことも思い出しました(彼自身の結論も極端かどうかはさておき)。
そういえば『ゴルギアス』でしたか、プラトンは弁論術だったかソフィストの術だったかはまさに料理術に等しいものに過ぎないなどと腐していたことを思い出しました。実際は料理術は素晴らしいものでありますし、それはそれで立派な専門知の一つだとは思いますが、情報の洪水にさらされている現代の一般市民は情報の識別能力を含めたそれ以外の術が求められているでしょう。専門知は誰もが究められるわけはありませんが、そのような術は誰にでも身に付けられるもののはずです。