上馬キリスト教会のQ&Aの出鱈目

別の記事で、宗教団体が時流に乗ったり大衆に媚びるような軽薄なことを書いて注目を集めようとするのは浅ましいし、そういう団体が、社会的に健全であるか、正確なことを述べているのか、出会った人に誠実に向き合ってくれるかとは全く関係のないことなので、安易に関わろうとせずに注意したほうがよいと書きました。

浅ましい寺の掲示板
Twitterで、エヴァンゲリオンのセリフを看板に書いている寺の写真を知人がリツイートをしているのを見つけました。このような掲示板はその寺に限らず、少なからずの寺が同じようなものを作っているようですが、一体何が面白いんでしょ...

中には、表面上は大衆受けするような軽いノリで物を書いて、実際は出鱈目なことを述べている原理主義的な傾向を持つ宗教団体も存在し、一例として、Twitterで面白おかしいことを書いて一部で人気を博しているらしく、本まで(それも複数)出版している、上馬キリスト教会というキリスト教会のURLを貼りましたが、この教会が実際は聖書やキリスト教文化について基本的な事実から誤った出鱈目なことを述べている点を具体的に指摘して注意を喚起したいと思います。

上馬キリスト教会のサイトにはQ&Aコーナーのページがあり、そのうちの「牧師が答えるQ&A」には以下のような記述があります。

聖書とはどのような書物ですか?また、誰が書いたのですか?
このような聖書に関しての質問はよく受けます。多くの方々が持つ疑問の一つです。聖書は旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻から成り立っています。聖書には何が書いてあるのでしょうか。新約聖書は新しい契約の書、旧約聖書は古い契約の書という意味です。ですから、聖書は神様と私の契約の書ということです。その契約の内容が聖書の中に書いてあるのです。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する
信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
[テモテ第2の手紙3章16節]
この言葉の中に「神の霊感」とあります。この「霊感」という言葉は英語で「インスピレーション」という言葉で「息吹」という意味です。私たちが寒い日に息を吐くと、白い息が息吹のように内側から出てきます。それと同じように、聖書は神の言が神の内から息吹のように溢れ出て、聖書の著者たちに働き、各々の個性を用いて、一言一句間違いなく、ダイナミックに、しかも個性的に、記された書物なのです。
聖書の著者には思想だけが伝達されたのであり、細部の記述は正確ではない、と言う人々がいますがこの理解には問題があります。思想を正しく伝達するためには、正確な記述がなければならないからです。
つまり、聖書の著者は「神御自身」です。神は、聖書の記述の実務担当として、著者たちを用いたのです。
聖書は、私たちにイエス・キリストに対する知恵を与えてくれます。そして、私たちに信仰と救いを与えてくれます。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とあるように、聖書は人間に全人格的成長を与えるものなのです。

上馬キリスト教会は、新約聖書の中の「テモテへの手紙二(以下「第二テモテ」)」の当該箇所をもって、今日の新約聖書、旧約聖書が一言一句間違いなく、細部まで正確に記述されたものだと言いたいようです。しかし、そもそも明らかな事実として、第二テモテが指している「聖書」は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻を合わせた今日の66巻の「聖書」のことではありません。よく考えれば当たり前のことですが、後に新約聖書の一部となるこの手紙が書かれた時点では、今のようなまとまった形での新約聖書は存在していませんでした。そうではなく、ここで「聖書」と呼ばれているのはあくまで旧約聖書のことです。

しかも、第ニテモテ含め新約聖書は1世紀、2世紀当時のギリシア語で書かれているのですが、ギリシア語を使っていた第二テモテの著者がここで言及している、当時流通していた旧約聖書は『七十人訳聖書』といって、もともとはヘブライ語で書かれた文書がギリシア語に翻訳されたもので、そこには後にプロテスタントが今日の「聖書」66巻から排除した文書も含まれているのです。

さらに、上馬キリスト教会は、聖書が「一言一句間違いなく」とか、「正確な記述」(「間違いがない」とは一体どういう意味なのかも疑問ですが、この教会は進化論を否定していますから(「初めての方へのQ&A」Q17参照、おそらく歴史的、科学的な事柄を含めて誤りがないという意味なのでしょう)などと書いていますが、第二テモテは上馬キリスト教会の言うように事実と照らし合わせて正確であるかどうかなどとは前後の文脈と照らし合わせても一切述べていませんし、彼らが「聖書」がすべて「神の霊感」によるもので、「有益」であることをそのまま信じているというのなら、上に述べたことからも、現在の聖書では66巻に含まれていない文書もそこに含めないと辻褄が合いません。

このように、第二テモテの著者は、決して聖書66巻が正確であるとかないとか主張しているわけではありません。それにもかかわらず、文脈を無視してこの箇所を引用してそのような主張をするのは、歴史的事実だけでなく、聖書に書かれている内容自体に反する偽りを述べているにすぎません。こんなことはちゃんと神学を学んだ人なら誰でも知っているはずのことで、嘘をついて人を騙すのと変わりありません。

上馬キリスト教会に限らず、主に「福音派」と呼ばれる原理主義的な傾向を持つキリスト教会やキリスト教系の団体がこの箇所を、聖書が「誤りがない」ものであるのを説明するために引用しているのを見かけますが、以上のことからもそのようなことをするのは極めて不適切であり、彼らは自分たちが聖書に忠実であるように見せかけておいて、実際には聖書に書かれている事柄よりも、「誤りがあってはならない」という自分たちの身勝手な願望を優先しているにすぎないことがわかるかと思います。

よく誤解されていることなので改めて書いておきますが、福音派の人たちは、「聖書にあることをそのまま、忠実に信じている」のではありません。「誤りがあってはならない」という信念に基づいて(私からすると無理やり)解釈しているに過ぎないのです。そのような態度と聖書で語られている事柄に真摯に従っているかどうかとは全く別の話です。

Q&Aの他の項目にも思わず目を疑うような記述を見つけました。「教会では占いをしてはいけないといわれますが・・・」という項目で、

朝の民放を観ると「占いコーナー」があり「あなたの今日の運勢は」と放送されます。各民放の内容を比べると内容が違う事に気がつくのではないでしょうか。また、驚くべき事にそのコーナーのバックミュージックにバッハの「ハレルヤ!」が使われているのです。この曲は三位一体の神を讃えるために作曲された曲です。そして、バッハは作品が完成するといつも最後に「神に栄光があるように」とサインしたそうです。ハレルヤも例外ではありません。神が忌み嫌う占いのバックミュージックにハレルヤを用いるということは道義的にも信仰的にもあってはならないことだと思います。(強調は引用者)

などと書かれていました。

バッハの「ハレルヤ!」なる曲は聞いたことがありません。念のため調べてみましたがそんな曲は見つかりませんでした。おそらくバッハではなく、ヘンデルの「メサイア」のいわゆるハレルヤコーラスのことだと思いますが、二回もバッハと書いていることから、これを書いた上馬キリスト教会の牧師は本気で「メサイア」がバッハの作品だと勘違いしているのだと思います。こんなことはキリスト教以前にはっきり言って一般教養に相当する知識であり、まして牧師が間違えるなど恥ずかしいことです。

こんな牧師は一般教養を持ち合わせているのかも疑われますし、キリスト教の世界にどっぷりと浸かっていて聖書、教会、などと居丈高に語っているにもかかわらず、自分たちの先達が築き上げた文化的遺産に敬意を払っていないと思われても仕方がないでしょう。それこそ道義的にも信仰的にもあってはならないことです。

ウェブ上での活動にご熱心な上馬キリスト教会のメンバーは誰も指摘しなかったのでしょうか。このQ&Aは、現在の上馬キリスト教会のサイトに移転する以前のサイトにも残っていて、そこでも「バッハ」の「ハレルヤ!」と書かれていました。内容をチェックせずに旧サイトからコピペしたのだと思いますが、やはり一般教養がない人が多いのか、あるいは牧師への批判が許されないのでないかという疑いさえ生じます。

上馬キリスト教会:牧師が答えるQ&A

ちなみに、新約聖書には、イエスを裏切って命を絶ったイスカリオテのユダの後任、つまり十二使徒の一人という重要な役職を、なんとくじ引きで選んだ(使徒行伝(使徒言行録)1:23-26)という話があります。なんで占いは駄目なのにそれはいいんでしょうね?

※この牧師が引用している宣教師の発言によると、新宿の占い師が夜になると現れるのは、彼らが闇を好むサタンの手下だからだそうです。単に客になりそうな人通りが多いからという商業的な理由からだと思うのですが。ちなみに新約聖書(マタイによる福音書)に登場する、イエスの誕生後にやってきた、よく「東方三博士」などと呼ばれている人たちの実態は、夜空の星を見て導かれた「占星術師」であり、他の箇所では日本語で「魔術師」と訳されている言葉とギリシア語原文では同じです。確かに今日の「テレビ霊能者」のように、恐怖や不安を煽って金儲けを企むような占い師や、そういう人を利用するようなメディアは否定されるべきだと思いますが、それはまた別の話ですし、往々にしてむやみに罪や罰を持ち出して、やはり人の恐怖や不安を煽って信じさせようとしているという点では、大抵の福音派のキリスト教会は彼らがサタン呼ばわりしているそういう占い師と大して違いはありません。(2021年4月8日追記)

牧師でさえこんな出鱈目を書いて野放しにするような教会が、聖書やキリスト教について入門書を書くことができる資質があるなどなおさら考えにくいことです。本を企画したのが教会関係者か出版社かは知りませんが、自分が正しい側に属していて、その「正しさ」を与えることができるという思い上がりや、人気取りができて売れればよいという卑しさがあるからそんなことをする気になるのでしょう。聖書に書かれているイエスの言行に本当に忠実なのであれば、まさにそんな傲慢や浅ましさは徹底的に打ち毀され、自分が恥ずかしくなるはずです。そういう団体が書いた本が役に立つとしたら、せいぜい、原理主義的な傾向を持つ得体のしれない団体がどういう人たちで構成されているのか、どういう主張をしているのかを分析したいという私のように物好きな人にとってくらいでしょう。

先の記事で私は、上辺だけの情報で判断してこの手の原理主義的な団体に関わってしまうと、歴史的な知の積み重ねを頭ごなしに否定させられる羽目になるおそれがあると書きましたが、この教会に限ってみてもやはりそのような傾向があると言わざるを得ないでしょう。改めて、表面的な「ゆるさ」だけで宗教団体に近づくのは危険ですからくれぐれも注意したほうがよいですし、そういう宗教団体の書いた本を安易に手にとって、その宗教について何か理解したつもりになるべきではないと書いておきます。

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