「祝祷」できなかった女性たちとその後

癖になってしまっているこのサイトのアクセス解析を見たら、以下の記事が閲覧されていることがわかりました。ちょっとしたエゴサーチですね。いかんいかん。

祝祷は按手礼を受けていないと「終祷」?

神学校に在学中だったり卒業した女性が、教会の礼拝で説教を任されたにもかかわらず、礼拝の最後の「祝祷」が許されなかったという話なのですが、自分で読み返してみて、許されなかったのは彼女らが女性(それもまだ20代の)だっこともあるのではないかとふと思いました。実際は少なくとも自分たちの教派においては間違った神学理解によるものだとは思いますが、「女性牧師」と検索すると、ろくでもない原理主義者たちのページがグーグルの検索結果の上位に表示されることを思えば、100パーセント邪推とも言い切れないような気もしています。

(この中川健一は、アメリカの大統領選がインチキだったという陰謀論者です。「聖書入門.com」などという題に騙されないようにご注意)

(アメリカ?の原理主義者の宗教観を概観するには良いサイトです)

(「キリストバカ一代」らしいですが、どうかこういうバカは一代限りにしていただきたい

「女性」だけでなく「若い」ということについては、たとえば神学部の壮年の女性教員が呼ばれたとしたらどうだったのか、同じように講壇から降りるように命じたのかなどの疑問も湧いてきます(これが相撲なら、たとえ人命がかかっていても土俵から降りるように命じたでしょうが)。

ところで、自分が関わっている教派では、女性牧師は広く認められているのですが、以前の文章で言及した女性はいずれも現在は牧師以外の道を歩んでいます。これも個人の資質も大いにあるとは思いますが、特に昭和世代の信徒たちの中には未だに、牧師に父性を、そして男性の牧師の妻を、それこそ聖書にそんなものは一切出てこない「牧師夫人」なる役職に仕立て上げて母性を求めてきた歴史があることを思えば、未だに女性(特に未婚の)に対する風当たりは強いのではないかとも思わされました。バプテストのように牧師の人事権を教団ではなく、各教会が握っていますと、もし女性を牧師として呼びたがらない教会が少なからずあっても成り立ってしまうこともそういう風当たりの強さの一つなのかもしれません。もちろん、世代を問わず牧師として活躍し続けている女性も少なからずいますけれども。

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