続「按手」と「祝祷」覚書

以前の記事で言及した、西南学院大学教授の片山寛氏の論文を見直したところ、「按手礼の中心は祝福」という節で、按手について以下のように述べられていました。

「祝祷」は時々目にすることがあります。これはよい習慣だと思いますが,按手礼を「祝祷」をする権限の付与のように考える誤解は,改めなければなりません。按手礼は歴史上,結婚式と比較されることがあるのですが ―― それは,司祭の独身制度との関連で,按手礼が司祭にとっての結婚式だと理解されたことからきています ―― (聖職者独身制はともかくとして)内容的に深いところで対応関係を意識した方がよいように思います。結婚式もまた本質的に「祈り」であり,同時にそこに集う会衆すべてが自分にとっての結婚の意味を吟味する機会でもあるからです。

ここでいう「よい習慣」とされている「祝祷」は、あくまで按手式の際のものだと思われますが、やはり片山氏は按手礼と祝祷する権限を結びつけるような見解には否定的だということが改めてわかりました。

他にも、以下のページも見つけました。

それぞれ、イムマヌエル綜合伝道団、日本同盟基督教団の教会のもので、前者では少なくとも1998年時点で、祝祷ができるのは按手を受けた者に限定しておらず、後者では神学生や教会の役員はできないものの按手を受けていない「補教師」は祝祷ができるのだそうです。いずれももともとは原理主義的傾向のある福音派の団体(現在はどちらも福音派の中ではまだ原理主義的傾向は薄そう)ですし、バプテストとは異なった神学の教派ですが、そういう団体でもそのような見解が見られるということは、やはり按手と祝祷の関係について、神学史上統一された見解があるわけではなく、恣意的な慣習のところが大いにあるのではないかという疑いが生じてきました。少なくとも、私が目にしてきた「終祷」なるバカげたものはなんの根拠もないものだと思います。

バプテストの牧師が祝祷について言及していた文章もありました。

祝祷は牧師がイエス様に成り代わって、皆さんに恵み・祝福を与えているのではありません。何かありがたいパワーが牧師の手からレーザービームの様に発射されているわけではありません。これを受けるとご利益があるというものではありません。

私も全く同じことを考えて、また発言したことがあるので驚きました。スター・ウォーズの悪役であるダース・シディアス卿ことパルパティーン議長のように手から電撃を放つかのようなイメージを持っている人がいるのかもしれません。ダース・シディアスといえば、前ローマ教皇のベネディクト16世がそっくりだとネタにされたのも随分と懐かしいですが、そのローマ教皇がトップであるカトリック教会の場合はプロテスタントと違って、やはり聖職者が祝福の祈りについても、一般信徒とは異なる特別な権能を持っているのでしょうか。

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