いのちのことば社とユダの福音書
知人との話題でマルキオンという2世紀の神学者の名前が上がったのでググってみたら、またろくでもないサイトが検索結果の1ページ目に見つかりました。
いのちのことば社の2006年の記事です。
「負け組」視点からの再評価
まさに、ポストモダンの世界である。権威に反抗し、多様性を主張する価値多元主義的観点である。主流・正統でない亜流・異端の見解を再評価しようというのである。従来、歴史とは「勝ち組」の視点から書き残されたが、昨今は「負け組」の視点から歴史が再評価される傾向が強い。
(中略)
やっぱり正典福音書こそが福音書であり、外典福音書でしかない「ユダの福音書」には勝ち目はない。独断と偏見だ、とおしかりを賜るかもしれないがこれが私の正直な感想だ。この原稿で多少なりとも雑誌代の元手はとれたかな。
他にも突っ込みどころ満載の駄文ですが、そんなことを言うなら、惨めに処刑されたイエスこそ敗北者の中の敗北者であり、そんな人物を復活したキリストなどと崇めているのはちゃんちゃらおかしいと非難されてもなにも言い返せないでしょうし、そのイエスは決して歴史の「勝ち組」の視点に立って生きていたわけではなく、自身は田舎の大工の家に生まれ、交流していたのは貧しかったり共同体から排除されていたような民衆たちに他ならないことはこれを書いたような連中が大切にしてやまない聖書にはっきりと書かれていることです。これを書いたのは誰かは知りませんが(どうせどこかの牧師でしょうがさすがに神学の素養がある人だとは思いたくない)、こんな稚拙な駄文で原稿料をもらっているとはうらやましい御身分です。聖書が(誤りなき)神の言葉などと言い張る人に限って、聖書の実質には関心がなく、このような正統意識とでもいうものに囚われていると現実感覚が醜く歪んでしまうものだと改めて感じさせられました。
批判するなら内容について真正面に批判すればよろしいのです。私は日本縦断の旅をしている時に立ち寄ったブックオフでたまたま邦訳を見つけて立ち読みしたくらいですが、ユダの弁明云々以前に当時ありがちだったグノーシス的な二元論の影響が強く、そもそも大した内容ではなかったことは覚えています。
(2021年4月18年追記)大した内容というのは、ユダ福音書の中にキリスト教の伝統を覆すような事実や、「正典」とされている福音書のように現代人の心をも揺れ動かすようなことが書かれているわけではないという意味で、当時のキリスト教の一端を知るための歴史的資料としては重大な価値があることはいうまでもありません。当然ながら、イスカリオテのユダについての伝記的事実が書かれていたなどと信じるのは論外で、ヨハネ福音書は十二弟子のヨハネが書いたと信じているのと同じくらいおめでたいことです。
また、
聖書が(誤りなき)神の言葉などと言い張る人に限って、聖書の実質には関心がなく、このような正統意識とでもいうものに囚われていると現実感覚が醜く歪んでしまうものだと改めて感じさせられました。
と書きましたが、このような倒錯は宗教に限ったことではないと思います。たとえば「反差別」だとか「リベラル」を錦の御旗に掲げている人物が往々にして眼前の人物に対して平気で偏見まみれの差別的な言行をしたり、他者に不寛容なばかりかその自由を恣意的に抑圧しようとすることが思い起こされます。