独善的な「キリスト者」

Facebookのアカウントを削除したと書いたが、ログインがうまくいかなかったことの他にも引き金があったことを思い出した。

キリスト者を自認しているある知人が、妻の意向で子どもを連れて神社にお宮参りに行ったらしい。そのことについての他の人からのコメントへの返信で独善的なことを述べていた。正確な表現は失念したが、お宮参りを許さないキリスト者などキリスト者といえるのかというような内容だったはずである。

何を根拠に断言しているのか不明であるし、歴史を振り返り常識的に考えて、現実ではキリスト者と自認している人たちの中で配偶者の意向であろうとも積極的に神社に参拝をしなかったり拒絶する人は、それが本当に正しい態度なのかは別としても相当数いるだろうし、むしろ多数派だろう。そういう人たちはキリスト者といえないとでも言うのだろうか。度し難い思い上がりである。そのような態度は、彼が最も嫌っているであろう、自分たちの信仰だけが真のキリスト者に足りると自惚れてネット上で独断と偏見を撒き散らしている保守的福音派の原理主義者を鏡写しにしただけに過ぎない。

もっとも別に文句をつける必要もないかもしれない。万一にも彼が、空虚な「リベラル」だの「多様性」だの「マイノリティ」だのといった看板を掲げさえしなければ。少なくとも、彼自身は自分がキリスト教界の中でも相当な少数派であることは自認しているはずだが、彼が「マイノリティ原理主義者」か、自分がマジョリティに成り代わりたいと考えているのなら一貫はしている。

自称フェミニストなどの「反差別」、「マイノリティ」系の活動家しかり、もっともらしい高尚な理念を唱えていても、実際は彼らが考えているよりは少しばかり複雑で不都合な現実を否認した上で、単に私怨を晴らして今度は自分が権勢を振るいたいだけなのではないかと疑われる人物は相当数見受けられるが、結局は彼も同じようなものではないかと改めて思わされた。さぞかしニーチェも草葉の陰であざ笑っていよう。

ちなみに、彼の出自や経歴を書くとさらに驚かれること請け合いだが、なにせ狭い業界なもので足がつくと面倒なのでご想像にお任せしたい。少なくとも素人ではないはずの人間だから洒落にならない。

また、苦労したり傷ついた経験のある人は、他人の痛みに共感できる優しい人間になるなどということが未だにまことしやかに語られているのかどうかは知らないが、そんなことは実際は何の根拠もないデタラメで、確かにそういう素晴らしい人もいるだろうが(痛ましい経験をしたことのない人にもそういう人がいるように)、逆に、他人にも自分と同じように重荷を負わせたり傷つけたりするような歪んだ人間に出来上がってしまうことだってあるあろう。自戒を込めて書くと、高校吹奏楽部についての酷いコメントを見てもわかるように、むしろそちらのほうが多いのではないかとさえ改めて感じさせられた。他山の石にはなるかもしれないからFacebookのアカウントは残しておくべきだっただろうか。

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