センター試験廃止への批判の必要性
昨日と今日はセンター試験です。予備校のサイトに問題と解答が公開されていたので、倫理と英語とドイツ語を解いてみました。倫理は21歳で受験した当時は82点ほどだったと記憶していますが、先ほど解いてみたら10問以上間違え、怖くて採点していません。70点もないのではないでしょうか。英語は175点、ドイツ語は186点でした。
ドイツ語は英語に比べたら明らかに簡単で、初学者でも1年ちゃんと勉強したら私と同じくらいの点数は出せると感じたので、いつか、英語嫌いの悩める受験生に向けて、センター試験をドイツ語で受けようサイトでも作ろうかと思いつきましたが(もちろん、英語ができないまま大学に入っても結局困ったことになるのですが)、そもそも、センター試験を廃止する方向で政府が話を進めているということを思い出しました。
センター試験を廃止して、高校在学中に受ける、「到達度テスト」を新しく作るらしいですが、ざっと概略を見た限りでは改悪だと感じています。
そんなことをしたら、高校生の負担は増大する上、中学の時点で進学校でバリバリ受験勉強をしている中高一貫校の生徒や、塾や予備校に通える経済的余裕のある生徒が有利になるに決まっています。今以上に社会的な格差、受験生のスタート地点が大きく反映されてしまうでしょう。
また、フランスのバカロレアやドイツのアビトゥーアを真似したいのか、記述式の小論文などにシフトするらしいですが、小論文は採点基準はどうしても主観的なものになり、受験する側からすればブラックボックスだという欠点があります。(ただし、私自身は、高校生まで時点で論文の書き方や考え方を教えるべきだとは思っています。何の役にも立たない読書感想文や作文の代わりに)
浪人や、大人になってから大学に入ろうと思った人たちの扱いは一体どうなるのでしょうか。もちろん、私学なら二次試験を受ければいいだけですが、現状でセンター試験を受けなければいけない国立大学はどうなるのでしょう。学費が安い国立大学を目指している受験生も多いでしょう。
部活の実績も考慮されるそうですが、運動神経や、特殊な技能に恵まれない生徒との間に不公平は生じないのでしょうか。
面接などの人物重視ということらしいですが、大学生と就活と同じで、面接先に媚びへつらう、美辞麗句を並べる都合のいい人間が採用される危険は孕んでいないでしょうか。一体誰が面接をするのでしょうか。(就活商法と同じようなビジネスが賑わってお金が動きそうですね)
全国共通の機関が人物判定をするのであれば、なおさらその組織の一律的な価値観によって人物が測られるおそれはないのでしょうか。それをもって全国の国立大学への門が閉ざされるようなことになれば受験生からすればたまったものではありません。また、容姿など本人の人格や能力に関係のない要素が影響されないのでしょうか。
まだ断片的な情報しか報道されていないのもありますが、疑問符がつくことだらけです。
センター試験廃止の根拠としては、学力の低下などの声もありますが、実際にはどうなんでしょうか。印象論だけで語ってはいないでしょうか。仮に学力が低下していたとしても、これらのことから、その解決策としての到達度テストには到底同意できるものではありません。
そもそも、提言を行っている教育再生実行会議自体、クリスチャンの肩書きを利用している作家の曽野綾子などの教育のド素人や、悪名高い「新しい教科書を作る会」の関係者など、いかがわしい人物ばかりで構成されている組織だということも忘れてはならないでしょう。また、安部首相や、下村文科省は、「神道政治連盟国会議員懇談会」などという、政教分離に真っ向から反している組織に属しています。
こんなニセ教育者が跳梁跋扈することは断じて許されるものではありません。あれこれ批判してみましたが、我ながらまだまだものの見方が甘いと思っています。センター試験を廃止させようとしている人たちの背景にある意図や考え方がまだ見えてきません。ともかく、現場の教育関係者や、受験勉強に勤しんでいる高校生たちには、はっきりと反対の声を上げて欲しいものです。
ダイヤモンド社のサイト内の下村博文氏へのインタビュー
http://diamond.jp/articles/-/60886
もう突っ込みどころ満載。東大への歪んだコンプレックスが感じられるのは気のせいか?東大生に「人を思いやる優しさや慈しみの心、また、新しいものや多様なものを受け入れることができる姿勢」が欠けているとでも本気で思っているのだろうか。そりゃ確かに傲慢な人もいるでしょうけど…。大学じゃあ東大卒の先生に大変お世話になりました。彼が聞いたら苦笑いしながら皮肉たっぷりに批判することでしょう。
下村氏たちの政策はむしろ価値観の一律化、大学への入口を狭める結果になるのではないか。