日本の女子や少女向けアニメへの偏見(大藪順子氏を一例に)
某所でメディアの影響によるジェンダーへの影響やフェミニズムが云々という集会が行われるという情報を目にしてその集会の講師について調べてみたところ、案の定といったらいいのでしょうか、本人の講演をもとにしたらしいおかしなことが書かれた記事ができました。
「被写体との関係づくりで、先入観を取り除く」〜フォトジャーナリスト・大藪順子さん(森ノオト)
2019年とだいぶ前の記事ではありますが、後半では一例としてアニメのキャラクターによって女の子に刷り込みがなされるなどということが何の脈絡もなく述べられていて、おそらくその講演でも同じような話がされたのだと思います。主張に論理的な飛躍がありすぎますし、「Twitterに違反報告したら対象アカウントが凍結されていた」でも言及した、欧米(今回はアメリカ)の社会や文化に比べていかに日本が遅れている、劣っているかを一面的に非難するいわゆる「出羽守」の傾向が見られ、本来は読む価値もない低劣なものですが一例を挙げて指摘してみましょう。
大藪さんが日本に帰ってきてからさまざまなメディアに触れて感じたことについても、話していただきました。そのうちの一つが、「日本では女の子の自己肯定感が低すぎる」こと。「アメリカ人の夫は、冬でも女の子のスカートが短いことにびっくりしています。可愛いと思ってやっているのだと思うけれど、長くたって、ズボンだって可愛い。日本のカルチャーの中で、女の子はどうあるべきかというイメージが発せられているのが、ちょっと観察するとわかってきます」と指摘します。日本の女の子たちが一番ハマる少女向けアニメは、なぜかいつもミニスカート。3、4歳の頃から、「女の子はこういう姿が可愛い」という刷り込みがされているのです。
一方で、アメリカでは肌の色やファッションに関係なく、賢くて強いスーパーヒロインが人気。大藪さんが紹介したアニメのキャラクターに肌の露出はほとんどなく、「自分の頭で考えて、自分の意見を言っていく」かっこいい女の子のキャラクターが描かれています。大藪さんは、「可愛いだけがその子の価値じゃないということを、大人が、母親だけでなく父親もちゃんと意識してほしい」と語ります。(2022年3月5日閲覧)
まず自己肯定感の低さとスカートの短さを結びつけている時点で荒唐無稽です。大藪氏の夫(自分ではなく「アメリカ人の夫」を引き合いに出すところがある意味一番「日本的」な欧米への劣等感の裏返しのようで卑屈に感じます)が見たという女の子のミニスカートというのも一体何歳くらいの女の子をさしているのかもわかりませんし、そういう女の子がどれくらい多いのかどうかもわかりません。私もこの間電車に乗っていたら、高校生くらいの女の子が膝よりもだいぶ短いスカートを履いていて寒くないのかと驚きましたが、そのような短いスカートを履いていた乗客は彼女くらいで、少ないから単に目立って印象に残っただけだと思います。実際にはロングスカートやパンツルックの(可愛い)女子だっていくらでも乗っていたでしょう。そもそも大藪氏が述べているように本人が可愛いと思ってやっているのなら、自己肯定感が低いと断言することはできないのではないでしょうか。確かに風邪を引きそうで見ていて心配にはなりますが、当の本人からすれば大きなお世話でしかないでしょう。アメリカで生活すると人間の内面まで見透かせるようになるとでもいうんでしょうか。「かわいさ」や、ミニスカートの流行は日本で発展したれっきとした文化といえるものであってなぜそれを肯定的に捉えず尊重しないのか疑問です。
大藪氏が紹介したというアメリカのアニメがいかなるアニメであるかもこの記事だけでは定かでなく、一方の日本のアニメについては単にいつもミニスカートを履いているとだけ述べているだけでそのキャラクターの内面については一切触れられていません。実に不公平な取り上げ方で詭弁と言ってよいと思います。アメリカのアニメの特徴についても、性別にかかわらず建国以来のもともとの国民性(女性にも拡張された”self-made man”?)がアニメにも反映されているだけに過ぎないのではないでしょうか。
それほどアニメが子どもたちの成長、ひいては社会に影響を及ぼすというのならば、その「肌の色(これも何の脈絡もなく出てきました)やファッションに関係なく」、「賢くて強いスーパーヒロインが人気」らしいアメリカの社会はいかなる社会でしょうか。日本とは比較にならないくらいに貧富の差があり、様々な人たちが性別や人種や宗教などの自分の属性によって対立しあっている社会ではないでしょうか。あるいは日本もピストルを携帯する自由が認められ、強力な軍隊を持って核武装を目指すべきだとでもいうのでしょうか。
そもそも、少女向けアニメを見ることが「女の子がどうあるべきか」という信念を形成するにあたってどれほどの影響を及ぼすのかどうかもわからず、刷り込みがなされていると断言できる自信がどこからきているのかが不明で独断的です。当たり前ですが、女の子といえども少女向けアニメばかり見て育つわけではありません。他のアニメや特撮を見る自由も保証されていますしそうあるべきです。反響室で同類とばかり馴れ合っている人たちにはわからないかもしれませんが、言うまでもなく子どもに限らず人間はテレビ番組以前に家族をはじめ周りの生きた人たちとの関わりの中で人格を形成していくのであって、なぜアニメを殊更に槍玉に挙げるのか理解に苦しみます(実在する人間ではなくて叩きやすいからか)。
また、上で引用した箇所の下の「自衛隊のアニメポスターに苦笑」の写真のキャラクターは、明らかに大人のオタク男性をメインターゲットにした「萌えキャラ」風のイラストであって(「ハイスクール・フリート」なるアニメらしい)、それまで話題に出していた女の子向けのアニメとは全く関係がなくやはり脈絡がありません。私も浅はかで馬鹿馬鹿しいとは思いますが、単に露出の多いキャラクターを目にするのが不快だから否定したいだけのこじつけだと疑われます。それともやはり、アメコミに出てくるような女性キャラクター(X-MENのストームみたいな?)を使った広告なら許されるんでしょうか。
なお、引用した文章は、あくまで大藪氏の講演をもとに編集された記事のものですから、大藪氏本人が荒唐無稽な主張をしているわけではなく、単に編集者(齊藤真菜氏)が低劣なだけの可能性もあると書いておきます。単に齊藤氏の編集者としての能力が低いからか、悪意を持って大藪氏をおかしな人のように演出したのかはわかりませんが。
引用箇所の最後で、「可愛いだけがその子の価値じゃないということを、大人が、母親だけでなく父親もちゃんと意識してほしい」と述べているように(わざわざ「父親も」と付け加えているところに日本の男性に対する不信感が感じられる)、好意的に受け取れば大藪氏はあくまで「可愛さ」だけを女の子に求めることを批判しているようにすぎない(そもそも女の子に話を限定する必然性がなく男の子に「強さ」や「格好良さ」を求めることに対しては何の言及もないとはいえ)ように見えないこともないですが、引用部の前半ではミニスカートではない長いスカートやズボンも「可愛い」と表現しており、女の子に対して可愛さを求めることに対してどういう立場なのかさっぱりわかりません。
文章を書いたのは本人ではないとはいえアメリカで学んだわりには論理的でない主張で短いにもかかわらず読むのが苦痛でしたが、結局は例の自分をアメリカ人と同一視して「アメリカと比べて日本は」と一面的に非難するステレオタイプのいわゆる「出羽守」の域を脱していないと言わざるを得ません。
いずれにせよ、気に入らないものを闇雲に否定するのではなく、自分が不快なものに対しても寛容になった上で選択肢を広げることのほうがより生産的で子どもたちのためにもなるでしょう。当然ながら女の子が少女向けアニメばかり見なければいけない理由はありませんし※、戦隊ものや仮面ライダーに憧れようが自由です。女性のパンツスーツやスラックスの学生服が認められていくのは良い傾向だと思います。でも男のスカートは私は抵抗がありますがどうでしょう(ズボンの上に履くロングスカートなら持ってますが)。
それはともかくも、「Twitterに違反報告したら対象アカウントが凍結されていた」でも述べたように、私はこの手の人物と対話が成立することは全く期待していません。自分の個人的な体験を無批判に社会問題に一般化し、あくまで自分たちは差別、迫害されているが、それでいて正義を手にしている側であるという妄執ともいえる枠組みに囚われているからです。ですから、私にできることといえばそういう人物の主張がいかに支離滅裂で説得力を欠いているかを示し、安易に関わらないように注意を喚起することくらいです。
とはいえ、ネット上だけを見ていると、さも彼女たちの影響力が大きいと錯覚しがちですが、実際にはそのような人たちはごく少数の割合に過ぎないことが数量的なデータの分析によって示されています。
ネット炎上「少数の意見」が社会の声に見える訳(東洋経済オンライン)
賢明な大藪氏は利用していないようですが、TwitterのようなSNS等で上のようなこじつけによる炎上が起きるたび(そういえば別のアニメキャラを使った自衛隊のポスターが炎上したケースもありました)、企業や自治体はそういう人たちの主張をいちいち真に受ける必要はないと思います。一切無視しても経営や運営に悪影響が及ぶとは考えられません。むしろ、謝罪、訂正することのほうが、そのような人たちに自己正当化する理由を与えてますます過激化させ、自由な表現が萎縮して社会に悪影響を与えることになるでしょう。内容を吟味せずに単に声の大きい人たちの言いがかりのような主張が優遇されるような社会は果たして良い社会でしょうか。
ですから今回は取り上げてしまいましたが本来はそれも避けるべきだと思います。「発達障害者を食い物にする似非専門家についての注意喚起」でも書いたように、デタラメな主張をする人たちは、自分の極端な主張がまず公共の場に取り上げられることを望んでいて、安易に反発したり批判することは彼らの宣伝になってしまうからです。
こういう人たちは掃いて捨てるほどいますが、上の記事でも述べたようにおかしな人たちを安易に取り上げるそれこそメディアの責任は無視できません。もっとも、今回大藪氏を呼んだのは本来は公益性はあるはずですがこの手のフェミニズムに以前から親和的で左翼的な主張で知られる団体で、おそらく出席者ももとから大藪氏に好意的な人で占められており、同じような人たちで馴れ合いますます考えが凝り固まって先鋭化していくのでしょう。実に醜悪です。
もちろんそのような人を呼ぶ自由もあるわけですが、こういう人を登用するような集会がオーウェルの小説に出てくるようなディストピアをもたらすきっかけにはなっても、社会にとってなんらかの良い影響をもたらすきっかけになるとは全く考えられません。
※さすがに今はこんなことはないと思いたいですが、私はなぜかひみつのアッコちゃんを見てはいけないと親に言われていたのを幼少期ながら未だに覚えています。親はおそ松くん世代のはずです(初めうっかり「さん」と書いてしまった)。かと思えば日本昔ばなしの裏番組だったセーラームーンは普通に見ることが許されていましたし今でもわけがわかりません。ただ当時は幼稚園児でしたが、小学生以上ならセーラームーンが好きな男子がいたら白い目で見られたのではないかと思いますがどうなんでしょう(逆もしかりで、幽遊白書が好きな女子なんかはざらにいたとは思いますがおおっぴらにできたんでしょうか)。気に入らないからといって否定するのではなく、どちらも自由に見られるし話題に出せるのが望ましいでしょう。
私はかつて大藪氏を呼んだ団体関連で、「正しい歴史観が美しい人間を作る」などと書かれた、ある「フェミニスト」の大学教員の書いた文章を読んで、「新しい歴史教科書をつくる会」などの右翼の言い回しと全く同じだと唖然としたことがありますが、特定のテレビアニメの悪影響を過大視して否定的であるという点で、保守的な理由からアッコちゃんを見せなかったのであろう私の親と、大藪氏は同じ穴の狢だといっていいでしょう。そういえば「出羽守」も昔にイザヤ・ベンダサンこと山本七平という右翼的な「文化人」がいました。偽名を使わないだけ大薮氏のほうがいくらかはましですが。
なお、セーラームーンに続く、戦うミニスカヒロインもののプリキュアは、男性の私は成人してから一部シリーズをDVDで見ましたが(普通にいい話でした)、きっかけは成人女性に勧められたことでした(彼女自身はミニスカは履かなそう)。以前も書いたような気がしますが、パソコンやスマホの前にかじりついていたり、むつかしそうな本を読んでばかりいる方々が考えているよりは現実の社会は少しばかり複雑で多様なものです。
(追記)よく考えれば、そもそも「ある」(雑誌やテレビ番組(?)にはミニスカートを履いた女の子がいっぱいいる(?))から「べき」(「女の子はミニスカートを履くべき」というメッセージを発している(?))を導き出せると安易に言っている時点で大藪氏の話のいかがわしさは十分なのですが。テレビアニメに限っていえば、たとえばプリキュア(見たことないですがアイカツとかも?)のようなアニメが「ミニスカートを履いた女の子が可愛い(だからミニスカを履くべき(?))」というメッセージを送っているというよりは、まずもってああいうキャラクターを多くの女の子は好きなものだという出来事が存在していて、それをマーケティングで調査した上で製作しているから人気があるのではないでしょうか(「流行」がどのようにして作られていって誰にどのように受容されていくのかを真面目に考えるとそう単純なものではないでしょう)。
ところでアメリカのヒロインものアニメといえば私は何故かパワーパフガールズが思い浮かびましたが、2等身のキャラクターとはいえノースリーブですしストッキングらしきものは履いていますがスカートはだいぶ短いですね。調べてみたら現在は茶色い肌の新キャラがいるようでいかにもアメリカらしい政治的ななんらかの力を感じました。肌の色は関係ないんじゃなかったんでしょうか。
大藪順子氏の個人サイトがあったので見てみたところ、「そしてこの社会におけるセックスの混乱・はん濫が私たちを盲目にしているという事実に。」などと書かれてあり、やはりそれが何を意味するのか不明ではあるものの、文脈からするとご自分の悲惨な体験と社会の出来事とを独断的に結びつけているように見えます。結局上で引用した発言の背景には個人的体験に基づいて性的と見なしたものに対する嫌悪感があることが疑われます。
頁の最後に「『立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」 エズラ記10:4』という旧約聖書の言葉が転載されていますが、この箇所を調べてみたらユダヤ人の共同体から異邦人の妻と子どもたちを追放しろという素朴に読めばバリバリの選民思想と女性差別(当たり前ですが当時の社会に基本的人権の尊重など存在しているはずもありません)に基づいた言葉で、前後の文脈を無視した恣意的な切り取り方だと思います。
大藪氏自身には神学の素養はなさそうですが、あるいはフェミニスト神学なら独自の「教義」に基づいた解釈でもあるんでしょうか。でも転載されていた日本語訳は、概ねフェミニスト神学とは距離を置いている保守的な福音派の「新改訳」のものですから、フェミニスト神学ではなく福音派の解釈があるのかもしれません。かなり無理筋だと思いますが、異邦の女をめとることが現代では社会規範を破った性関係を意味しているとでもいうのでしょうか。いずれにせよやはりよくわかりません。本当に何から何までよくわからない(わからせる気が感じられない)のでこれ以上真面目に考えるのが不毛なためこのあたりで筆を置きます。