学生活動家による気候変動を止めるための「学校ストライキ」への所感
私の卒業した大学の学生で、気候変動を止めるために学校を休む「ストライキ」を敢行している人がいることを知った。彼女のTwitterを見ていると気候変動以外にも典型的な「意識の高い」左翼の好みそうなトピックの寄せ集めに満ちていたが不思議なものである。
常識的に考えて、大学を欠席したところで気候変動になんの影響も与えないし、なんの示威行為にもならない。労働者の待遇改善要求としてのストライキとの共通点も全くなく、「ストライキ」という言葉を使うこと自体が不適切である(「政治スト」も存在はするから言いすぎかもしれないが少なくとも正当な争議行為とは認められていない)。自分の価値を過大に見積もっており、幼稚な傲慢さが感じ取れる。
その人が勝手にサボるのは自由なことだし、自身は成績が優秀なようで自分は正当な理由なく欠席したところで学生生活やその後の人生になんの悪影響も及ばないのかもしれないが、まずいないとは思うが煽動を真に受けた他の学生はそうとは限らない。たとえば実際に、私が世話になった学生運動世代の教員は東大生時代に安田講堂の屋根に上るなどして卒業が一年延びたなどと言っていた。彼はそれでも優秀だったから教員にまでなれたのだろうが大半の学生はそうではないだろう(まあ東大なら一年留年したところで私の出た大学などよりは引く手あまただったかもしれないが、60年安保の後に三菱樹脂事件などもあったから全国的には学生の人生に悪影響が及んだケースは少なからずあったと思う)。
そういえば大学生時代に世話になった年配の知人に勧められて、「推薦文を寄せている顔ぶれを見るだけで腐臭が漂っていてとても読む気になれない」と返事をしたが、後日書店に積まれていたのを見つけてざっと目を通すだけ通した『人新世の「資本論」』にも、同じような「ストライキ」でもなんでもいいからなにか行動するように煽るような文章が最後の方に書かれていた。著者の斎藤氏もベストセラーらしい新書を使って他人を煽るだけ煽ったところで公立大学の常勤教員としての自分の地位はなんら脅かされることはない。実にお気楽なものである。
左翼のイデオローグがそうやって他人の人生にどういう影響が及ぶのかも考慮せずに無責任に煽動するのは学生運動時代から何も変わっていないと改めて思わされた。もっとも、近年の弁護士への大量懲戒請求事件や署名偽造事件などを見るに実際は左翼に限ったことではなく活動家やイデオローグ全般に言えることなのだろう。そして往々にして都合が悪くなったら末端の追従者はあっさりとトカゲのしっぽのように切り捨てられるものである。
とはいえ、そのような活動家のような学生など所詮はごくごく少数にすぎないからいちいち取り上げる必要はないし、この手の人たちはそもそも自分たちの活動が取り上げられることを目的としているから相手をしたら思う壺なのだが、学生運動世代の高齢化した左翼からするとこういう若者が出てくると若返りに利用できるから勝手にすり寄ってくるもので、実際に彼女もすでに少なくとも赤旗や朝日新聞、毎日新聞で好意的に記事が書かれていて、今はすっかり聞かなくなったSEALDs(私には当初から彼らが学生運動のゾンビにしか見えなかった)の時と全く同じようにいかにも典型的な現象だと思わされた(彼女のツイートにはご丁寧に立憲民主党の候補者と並んだ写真も載せられていた)。
https://mainichi.jp/articles/20211008/k00/00m/040/441000c
毎日新聞の記事を見てみると、活動家学生は「私は皆さん方、大人に『あなたたちの未来と命はない』と宣告されたように感じました。絶望しました。気候危機から国民の命を守るという責任を放棄したように思えます」などと言っているが、20歳にもなればそもそも自分自身が大人であるし、自分が非難している大人たちが培ってきた世界で養われて現在は国立大学の学生にまでなって生きているのである。甘ったれるのもいい加減にしろと言いたい。やはりこの手の活動家にありがちな、自分が世界の外側に立っていて神の視点で世界を裁く特権があるかのように錯覚している幼稚な傲慢さが感じられた。「大人は子どもたちを愛していると言いながら、その目の前で子どもたちの未来を奪っている」という文言はグレタ・トゥーンベリの引用らしいが、これまたいたずらに憎悪を煽動して分断をもたらすような立場を問わず近年流行しているイデオローグのやり口の典型に過ぎない。公害と違って加害者と被害者を分けることができないのが環境問題の常識のはずである。記事を書いた信田真由美記者は学生運動世代ではなくまだ比較的若そうな人だが、他の記事にも煽情的な見出しが踊っていて公平な情報を提供することを放棄していることが疑われる。このような稚拙な文章で活動家の若者をヒロインのように煽り立てる大手新聞社はなんとおぞましいことか。
余談ながら、実際に複数の女性活動家(どちらもステレオタイプなヒステリックな年配の人だった、少なくともうち一人は家庭崩壊状態なのが興味深い)に言われたことがあるのだが、こういう活動家は、自分たちが非難されるとじゃあ自分たちの掲げる理想のためにお前は何をしているのだなどと問い詰めてくるのが常であるがまともに反論する価値はない。彼女らは絶対に非を認めないので時間を浪費するだけである。そういう時には、あなたはそうやって自分を誇って他人を見下すために活動しているのかと問い返すか、あなたのような独善的な人を批判することが世界のためになるとでも言ってその場を去ればよろしい。
ところでやや表現がきつくなったところはあるものの、私は何も活動家学生個人が憎くて批判しているわけではない。私の卒業した大学は沖縄を除けば九州の最南端、私の在学当時は政治的な立場を問わず徐々に全国的に浸透しつつあった国の中央での流行にはまだ染まってはいない状態だった。それから稲盛和夫の息のかかった建造物がさらに次々と建てられたり、以前も批判したように金儲けを目的とした学生団体も複数登場した。そのすべてに意義がないとまでは言うつもりはないが、地域ならではの特性や、大学での即物的ではないが地道な学問の積み重ねを軽視する(させる)ような風潮が広がりつつあるのなら非常に残念でならない。
(追記)「スト」の意味の無さについて。学生運動を経験したであろう70代くらいのある人が、「選挙では投票したい人物がいない抗議の意思表明として選挙に白票を投じている」などと言っているのを先日聞いたが、彼の意図が伝わるためには「白票が抗議の意思表明である」ことが立候補者を含めた国民に共有されている必要がある。しかし現実では白票にそのような意図があると広く共有されているとは到底考えられず、そうである以上はボケ老人が名前を書き忘れたのと区別されずなんの意味もなさない。同じことが「スト」にもいえる。単なるサボりと区別はつくまい(そもそもだからどうしたという話なのだが)。しかも、仮に何十人がサボタージュしたところで、教員によるかもしれないが1人でも2人でも意欲のある学生が受講していたら結局授業を平常通り開講せざるをえないだろう。場合によっては奨学金を借りて高い学費を払って学びたい学生からすればいい迷惑である。
さらに、本来環境問題を語るにあたって一方的に何者かを加害者として断罪することはできない(それゆえ公害問題よりも複雑である)のは書いたとおりで、なおのこと件の学生の御高説は全くもって独善的で見当違いなのだが、ところで、彼女が好意的であろうフェミニストやLGBT系列が典型だが、この手の異常に被害者意識が強く他罰的な活動家がここ5年ほどで急増しているように感じる。ほとんどの支持者は本文で取り上げた新書を出すような学者などの裕福で社会的地位の高いイデオローグに煽動、感化された結果だとは思うが、ついに母校の学生にまで現れたかと思うと本当に嘆かわしい。これも以前書いたことだが、10数年前に流行しだしたネット右翼と身勝手な正義感を振りかざす独善性という点ではそう違いはない。上にも書いたように、そのような極端な人はごくごく一部の人に過ぎないのだとは思うが、「若い」「女性」だからなおのことなのか、無批判に取り上げて褒めそやし、拡散するマスコミは本当に罪深いと思う。左翼、リベラル陣営が復古主義的な右翼に匹敵するかそれ以上に偏狭で不寛容さを煽っている。
(7月6日追記)「この手の異常に被害者意識が強く他罰的な活動家がここ5年ほどで急増しているように感じる。」と書いたが、「親ガチャ」なる言葉も流行っているらしいように、なにも左翼的な活動家に限ったことではない流行の信念なのかもしれない。ただ件の活動家女子学生は自分自身が歴史的であることを(「活動」をする時だけ都合よく?)無視しているのに対し、「親ガチャ」などを言う人達は逆に宿命論を肯定する言い訳に使っているという違いがあるが。
(2023年5月16日追記)
友人が自転車を盗まれたというので詳細確認のため嫌々ながら久しぶりにツイッターを覗いてみたら、同じ人物がまた取り上げられていたのを知った。
31日告示の鹿児島県議選で、公選法が定める被選挙権年齢を満たさない鹿児島大3年の女性(21)が立候補を届け出て、不受理となった。被選挙権年齢の引き下げを求める活動の一環で、23日告示の神奈川県知事選でも25歳の女性が同様の動きをした。大学生は「将来を生きる若者の危機感が、年齢の壁で伝えられないことに悲しみや怒りを感じる」とコメントした。
年齢制限は若者差別にあたり、法の下の平等を定めた憲法の趣旨に反すると指摘。統一地方選の後半戦でも、不受理を見越して各地で同様の活動があるという。その後、集団訴訟を起こすとしている。
ここまでおかしな人だとは思わかなった。救い難いほど幼稚な全能感に酔いしれている傲慢なお嬢さんとしかいいようがない。一体どういう環境で育ったらここまで屈折するのだろうか。写真が載っている記事も見たが、新興宗教の信者や長岡式酵素玄米の「宣教師」に似ている異様な目つきだと感じた。
彼女に限ったことではないが集団訴訟を起こすなどと言っているようだが費用はどこから出るのだろうか。家族も同じような左翼活動家だとしたら私が大嫌いというよりあまりにも曖昧で恣意的に運用できるため意味がないと思っている言葉を敢えて用いればある意味「宗教二世」のようなものか。もちろん女性活動家にありがちだが逆に家族と断絶していて社会活動が拠り所となっている可能性もある。老年が多いある種の政治団体や大学教員などはこの手の若者が大好きだろうから、別に支援している人たちがいてもおかしくはない。
そういえば岸田首相を襲撃した被疑者も同じような不満を述べていたがごく一部の若者の間で流行し共有されている信念(新興宗教のドグマのように感じるが)なのだろうか。さすがに女子学生の方は自分自身はテロは起こさないだけの自己愛と狡猾さは持っていると思うが、異常な他罰性など近いものは感じる。