「宗教二世」の自己主張の暴走
Twitterで統一教会かエホバの証人か忘れたが、親がカルト宗教の信者で、子どもへの宗教の強制を禁じる法律を作るために活動しているという「宗教二世」の女性のアカウントを見て非常に違和感を覚えたことがある。
確かにカルト宗教によって家庭が破壊されるケースは少なくないと思われ気の毒ではあるし、我が子であろうとも信仰を強制することは立派な人権侵害である。しかし、彼女のいう強制とは法的にどういう事柄を指すのかが不明である。少なくともたとえば身体を拘束したりして信仰を強要するのは現行法でも違法だろう。実際に近年でも顕正会の信者が強引な勧誘で逮捕されているし、エホバの証人のように言うことを聞かないと鞭で折檻するような親は言うまでもなく本来は刑法に接触するだろう。
それにもかかわらず何故新しい法律が必要なのか、これ以上強制をどう定義すべきなのかがさっぱりわからない。子どもへの宗教教育はどうなるのか。たとえばキリスト教を例に挙げると信者が子どもを教会に連れて行くのも違法になるし、カトリックなどの幼児洗礼も信仰の強制とみなすべきなのだろうか。子どもへの宗教教育が一律に禁止されれば、子どもをミッション系学校に入れることもだめということになりかねないが到底現実的な主張だとは思われない。宗教教育に下手に国家が介入すればそれはかえって信教の自由の侵害になるだろう。
それになにをもって宗教行為とするのかも不明である。これは我ながらまともな視点だと思っているが、上のようなことを言う人に限って神社への初詣や、子どもが自動的にお寺の檀家になったり親が法事に子どもを連れて行くことは批判しないもので、戦前の神社非宗教論とまでは言いすぎかもしれないが、結局は日本人が無自覚に受け入れている「無宗教」という宗教を無批判に絶対視しているにすぎないのではないかと疑われる。突き詰めればそれらも立派な宗教行為の強制になるだろう。出雲大社と「王国会館」とどう区別をつけるつもりなのだろうか。そうでないのならあるいは「理性」を奉じるフランス革命後のロベスピエールらジャコバン派が支配するようなギロチン社会がお望みなのだろうか。実に危うい。
ちなみにある憲法学者に、神社での祭り(一応金を受け取るのは宗教法人そのものではなく祭りの後援会かなにかになっていたはず)に自治体がお金を出すのは適法なのかと尋ねた際に教えてもらったことだが、政教分離は学者でも下手に触れると学会で批判を受けやすいため研究テーマにしたがらないものらしい。どうもこれまで述べたような現実生活との折り合いをつけつつ法学的に論じるのが難しいということのようだ。ただし少なくとも裁判の結果合憲になったいわゆる津地鎮祭事件の判決に対しては現在は批判的な見解が多いという。
なお、私の父はカルト宗教とまではいえないがオカルト、スピリチュアル的な人物に傾倒したことが一因で死亡しており、父のおかげで家庭は崩壊、破産しかけたし、父の母、すなわち私の祖母はもともと創価学会の熱心な信徒だったのでそこらのいかがわしさや周りの人間のやるせなさは人並み以上に味わっているつもりだが、フェミニズムやジェンダー界隈でよく見かけるような自分の「アイデンティティ」(ここでは「宗教二世」)を絶対視して安易に一般化しようする人の一人にしか見えずまったく共感できなかった。
自戒も込めて書くと、いかなる苦痛を受けたとしても、その苦痛と、それをもとにした主張が社会の万人にとって正しいどうかは全くの別問題で、個人的な事柄を社会問題として俎上に上げて論じようとするならば、一度自分の体験やアイデンティティを相対化する必要があるのは言うまでもないことのはずだが(だから私も冷静になるため、誤解を受けないために上で書いたような自分の経歴を今は敢えてあまり表に出さないようにしている)、それが通用しない自己中心的な人がのさばるのは嘆かわしい限りである。以前も書いたように実際にはそういう人は声が大きいから目立つだけで極端な主張をするのはほんの一握りにすぎないのだと思う。これも以前も書いたようにこういう「マイノリティ」がSNSやなんの意味もない匿名のネット署名などで声を大きく、数を多く見せるのは常套手段だが、そんな感情的な小細工をいちいち行政が真に受けるのはかえって社会に混乱を来すだけなので本当にやめて欲しい。