デモを支持しない人は敵視する困ったクリスチャンたち
以前から書いていることですが、私は今の自民党政権にはきわめて批判的な反面、デモに熱心な活動家や学生とは明確に距離を置いています。以前、SEALDsの批判も書きましたが、全体主義的な政治と戦っているはずの人たちが、かえって視野の狭い、敵か味方かの二元論でしか考えられない全体主義的な、危険な傾向がみられるからです。
単純に、集団行動が苦手だというのもありますが、それはともかく、特に、まだ未成熟な高校生の子供たちまでデモに参加させてて、またそれを無邪気にたたえているような人たちには恐ろしさを感じています。
先日もこのようなことがありました。Facebookで友達になっていたある人が、もう詳しい表現は忘れましたが「デモをやらなければなにも変わらない、それを批判する人は安倍政権を沈黙、黙認している」というようなことをタイムラインに書いていたのです。
彼女は以前から政治的な投稿が多く、安倍晋三氏らを批判するのは結構なのですが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いがごとく、こじつけのようなものも多く、私は直接名前は出さないまでも(なにも彼女に対してに限ったことではないからです)以前から牽制するような文章を書いていました。ですから内心疎ましく思われていたのかもしれません。(あちらから友達申請してきたのですが)
しかし、今回のことはきわめて違和感を覚えたので、一度直接考えを聞いてみようと思い、「自民党に批判的でもデモと距離をとっている人は沈黙、黙認(沈黙と黙認もえらい違いですが本来は)とみなして非難されるべきとお考えなのですか」と尋ねました。
すると、私は「そういう意図はないが」という返答が来ると思っていたのですが、なんのためらいもなく「そうだ」と言い切り、喧嘩腰で「あなたはどう考えているのか?」とさらに一言返信がきました。
これだけでも驚くべきことですが、聞き返された以上は、「もっといろいろな考えをもった人たちが暮らしていることに目を向けるべきで、異論を許さないのは傲慢どころか敵であるはずの全体主義的だといえるのではないでしょうか」と素直に自分の考えを書いたところ、異論を許さないなんて誰が書いた、主張なら自分のタイムラインでやってくれ、人のコメントで批判するのはおかしいのではないかと返信があり、あとはヒステリックな返信が連続し、読むに堪えませんでした。
それに対し私は、SNSで投稿する以上は異なる立場の意見からの批判を受けるリスクも覚悟しなければならない。それを封じるならばやはり異論を許さないことを自ら証明しているのではないですかと書いたのですが、すでに返信できなくなっていました。友達リストから外されてしまったようです。なんという心の狭さかとあきれ返りました。こういう人が、自由や民主主義を掲げてデモ行進をしているのです。これほど倒錯的なことはあるでしょうか。自由でも民主主義でもなく、ただの独裁ではないでしょうか。
おまけに彼女、キリスト教徒なのです。しかもただのキリスト教徒ではなく、超教派の祈祷会を主宰して、いろいろな立場のキリスト教徒と関わりを持っているはずの人なのです。同じキリスト教徒としても本当に情けないです。
結局、ただのなれ合い、党派心でしかないのだと。イエス・キリストを信じているなら、自分の立場を絶対化するようなことが恐ろしくなる(少なくとも私はそうで、いつも傲慢さと葛藤しています)と思うのですが、彼女にはそういう点が見られませんでした。
言い過ぎかもしれませんが、結局、特定の宗教を信じているのかもしれないが、神も聖書の言葉も真剣に信じてはおらず、ただ自己正当化の道具にしているに過ぎないのではないか。
翌日、上の女性とも面識があり、長年社会運動に熱心な牧師に電話で同じような質問を投げかけたところ、「それは君があいまいな態度をとっているから問題なんだ」、「前から君は人を批判しすぎる」、「純粋思考ではないか」、などと言われました。
確かに胸に手を当てて考えてみるとわからなくもないのですが、曖昧といいますが、少なくとも、白か黒かの二元論的な枠組みでとらえるのはいかがなものでしょうか。そういう二元論的思考がかえって差別や抑圧を生み出すのではないでしょうか。自由と民主主義のために戦っているのであれば、それから自由にならなければならないのに、敵か味方か、自分に与しない者は敵であるというような狭い考え方で行動しているなら、大政翼賛会を逆立ちさせただけだと言わざるを得ません。
牧師も大事の前の小事とまでは言い切ってはいませんでしたが、SEALDsの関係者の人権侵害の話をしても、あまり重要なことだとは感じていないようでした。私からすると、彼らのやり方はブルドーザーのようなもので、目標に向かって真っすぐ進む一方で、道端に咲いている小さな草花には目もやらずにただ踏みつぶしてしまっているのです。
一時間弱議論したのですが、こちらの主張が伝わったかどうかはわかりません。
牧師は、デモに参加している人も様々な葛藤を抱えながらやっているとは言っていましたが、どうも私の周りには、自分たちの主張の正しさを絶対視して疑わないような人たちが目立ちます。
そもそも自由や民主主義(社会主義でも保守主義でもなんでも)は一体なんであるのかを問い直しつつ理解、解釈した上で運動している人がどれだけいるのか極めて疑わしいと改めて感じました。
こういう話は書いていて楽しいものではないですし、この手のことを考えるのに疲れましたので、当分政治的なことは頭の片隅に置いて、沈黙している、隠れた神にただ祈ろうと思います。